《前編》 より

 

【「ことよさし」の忘却⇒「泣きいさち」⇒「けがれ」】
 生きる力、晴れ晴れとした生命力、あっぱれな心、燃えたぎる【いのち】が湧かなくなって枯渇した状態の「けがれ」は、「泣きいさち」から起こってくるのです。
 そして、「泣きいさち」は「ことよさし」を忘却したからにほかなりません。(p.112)
 「泣きいさち」とか「ことよさし」とか、なにやらヤヤコシイ言葉が出てきたけれど、以下に説明が記述されている。

 

 

【「泣きいさち」】
 【泣きいさち】とは、全体の「こと」の道理をかえりみず、自分だけの偏った不平不満を周囲にわめき散らすことで訴えかけることを申します。・・・中略・・・。「泣きいさち」は、自分を全くかえりみず、被害者になったままの心で、周囲の人々をことごとく困らせていくような不毛な泣き方のことです。(p.110)
 片方を嫌って否定し、あるいは両方とも嫌がって否定する限り、この「現実界」は「泣きいさち」ばかりをする所となっていくのです。(p.122)
 須佐之男神は、大海原(地球・国土の意)をしろしめすという役割を負っていたのだけれど、これがうまくいかなかったので、泣きわめきながら逆に国土をグチャグヤにしちゃたという話があるけれど、これが「泣きいさち」の状態。須佐之男神は、「ことよさし」を忘れてしまっていた。
 須佐之男神とは、大昔に実際に存在されていた一人の神さまのことではなく、私たちの内面そのもののことであり、私たち全員の内側にある意識の働きのことを申しております。(p.123)

 

 

【「ことよさし」】
 実は、気付いていないだけなのですが、私たちは非常に多くの「ことよさし」を指令されて受けております。
 まず気付くべきは、私たちが【肉体という形】をいただいたことが一つの「ことよさし」なのだという厳粛な事実です。
 このときに指令者側は、「造化三神」でもあり、伊邪那岐神と伊邪那美神でもあります。
 指令された側は、肉体を持った人間なのです。
 そして、大切な任された「こと」とは、【完全なる神格達成】を通じての、永遠の弥栄の実践行動なのでございます。
 私たちが肉体をもった人型生命体であることは、どうあがいても「ことよさし」の関係性の上に成り立ってしまっているのですから、失望したり、不平不満があってはおかしいのです。
 人間と言う、まだ神格完成に至っていない性質のところをよく観察して、この生命体を【神格】に戻すよう育てていくことが私たちの「ことよさし」なのです。
 「今ここ」という現状に置かれていること自体、各自の「ことよさし」なのでありますから、今の状態の自分に価値があるとかないとか、そういうお話は問題外のお話なのであり、ただひたすら今この「ことよさし」に邁進するのみなのです。(p.112-113)
 「ことよさし」の観点からいえば、「自分探し」だとかいう思いも、あらゆるウジャウジャした悩みも不平不満もふてくされも、すべて【泣きいさち】であり、「なに言ってんの!」になってしまう・う・う・・・。
 須佐之男神は伊邪那岐神によって真の「いかり」を受け、厳粛な「神やらい」の行為まで受け取ることになりましたので、ようやくここに至って「泣きいさち」から離れることができ、須佐之男神の中に「参上り」の思いが起こってくるようになっていくわけです。(p.116)
 須佐之男神は、「神やらい(追放)」によって、「ことよさし」を自覚し、「泣きいさち」を離れて「参上り」に至ったけれど、諌める側とそれを受ける側のいずれにも【清明心】がなかったなら、決裂が明確になるだけである。
 【清明心】については、あまりにも基本なので、わざわざ書き出してこなかったけれど、これが全ての大和心の前提である。

 

 

【うるわし】
 「善心」の「善」は、「うるわし」と読みますが、普通は「うるわし」には漢字の「麗」をあてています。
 それなのに、古事記では「善」の字を用いています。
 なぜなら、この場合の「うるわし」は、「完璧にそれでよろしい」という状態をあらわす表現だからです。
 大和民族にとって、「それで宜しい」というのは、真・善・美・愛の全てを満たして、心情的にも論理上からも倫理上からも、どの観点やどの見地からも「それで宜しい」というときだけ「うるわし」と表現するからです。

 大和の民族の最大の目標は、【うるわしき心のうるわしき人】なのであって、外面的な美や、高い地位や、多くの財産や、大きな名声があることが目標ではないのです。(p.130)
 この本には、至るところに「真善美愛化」という用語が出てくるのだけれど、常にこの「うるわしき」状態が求められているということだろう。
 なお、日本人にとっての「きれい」には、「美しい」と「清らか」二つの意味があるけれど、このことまで入れてしまえば、「真善美清愛化」になる。
    《参照》   『幸せを手にする人は、「色の言葉」を聴いている』  武藤悦子  主婦の友社
              【クリアー:光へ帰る旅】

 

 

【真名井】
 天照大御神は、「みこうみ」のとき、「あめのやすかわ」の中にある【あめのまなゐ】で「みそぎ」をされました。
 【まなゐ】の「まな」は、漢字をあてますと「真名」となります。
 これは「仮名(かんな)」に対して使用する言葉です。
 「ゐ」のほうは、漢字で書けば「井」「居」となります。

 外側をあらわす「仮の名前」に対して、中味をあらわす「真の名称」がありますが、【実際の中身・実態】が「真名」ということで、表向きの名前(仮名)を成り立たせて生かしているのが「真名」なのです。
 たとえば、井戸というからには、外側の四角や丸い「囲い」が真の井戸ではありません。
 その中に水が入っていてこそ、井戸という生きた役割が果たせます。
 そして、この水は、大河から井戸へと流れ入ってくるもので、この大河を「あめのやすかわ」と申すのです。
 肉眼では見ることができない、無限の【いのち】の大河のことです。(p.144-145)
 「仮名(かんな)」は「神名」であり、「神名」に対する「真名(まな)」は、“神のはたらきをあらわしている” と言っている。
 神道を習えば、「神名は、はたらきをあらわすもの」ということは最初に学ぶことだけれど、物理学の用語で言い換えるなら「神名は、エネルギーをあらわすもの」と表現できる。
 例えば「瀬織津姫」は水の神と認識されているけれど、水神という場合であっても、個体(氷)⇔液体⇔気体と状態が変化して、目に見えない様相(気体)を呈する場合もあるように、物質界から非物質界へと変容(進化)する総体を表現しようとすれば、“はたらき”とか“エネルギー”と表現するしかないのだし、むしろそのような「真名=はたらき=エネルギー」として捉えた総体的な認識で「神名」を理解するようにした方が、高次元へ向かう意識は育ちやすい。
 さらに書いておくなら、電気エネルギーにプラスとマイナスがあるように、全てのエネルギーに陰陽の両側面があるので、エネルギーの、女性性ないし和魂の側面と、男性性ないし荒魂の側面を、別の神名で表現しているのが一般的。
 
 著者の他の著作 の著者名は 「mana」 となっているけれど、『古事記』に関するこの本に限っては「真名」となっている。まさに【実際の中身・実態】を記述して、我々に示してくれている。

 

 

【のりなおし】
 天照大御神の「あい」の【ひ】をもとに、その「威光」をもって言葉を発する神わざを【のりなおし】と申します。
「のり」は、「みことのり」の「のり」。「いのり」の「のり」。「のりと」の「のり」です。
 単なる「直し」という言葉だけでしたら、悪いところがあるから直すという考え方に元づくものですが、【のりなおし】となれば、「神としての立場」から各自の考え方や行動を直すことですので、そこには“悪いところ”という否定的発想は全くなく、各自に対する深い「あい」と信頼があるのです。(p.171)
 お昼に食べたオニギリのノリが、口元に付いていたら、それを鼻の頭にちゃんと付け替えるのも「ノリなおし」。恥ずかしがって急いで口に入れてしまったら「ノリなおし」にならない。
 のりなおして下さい。

 

 

【「やまたのおろち」が意味するもの】
 昔はたしかに大蛇もいたのでしょうが、古事記における「やまたのおろち」が意味するものは、『「高天原」の調和理想など全く自覚せずに、ただ享楽的に生きるだけの無自覚な存在』のことを、大蛇という象徴的な名称で例えたものなのです。
「やまたのおろち」は、お酒を飲むというより、お酒に飲まれてしまい、ぐうたらに暮らし、人を泣かせたり、他者の物を奪い取って、全部自分の都合よく所有してしまおうという状況もあらわしております。
 分かちあうとか、他者のために何かをするとか、【清明心】によって素晴らしいものを作り出していこうという状態とは真逆のものを表現しております。
 古代におきましても現代におきましても、このような「やまたのおろち」は、なんとなく自他の中に思い当たる怪物でございます。(p.207-208)

 

 

【大国主命:袋せおいの心】
 大国主命は、八十神たち(兄神たち)が自分で持つことを嫌がった旅行道具や荷物の全てを引き受けて、大きな袋に全部お入れになって、これを背負われました。
 このことが伝えている「おさとし」は、「全ての他者の【いのち】や人生に貢献することを喜びとせよ」という教えなのです。(p.212-213)

 

 

【大国主命:「お供」の精神】
 しかも、このとき大国主命は、兄神たちの「お供」になって、一番あとから付いていっていらっしゃいます。
 これは、「お供」の精神を忘れるなということを教えております。・・・中略・・・。
 偉ぶらない心の状態を「お供」で表現しております。(p.213)
 シケ桃は、チャンちゃんのお供をしながら、ぜんぜん偉ぶらない。なかなかよくできたワンコである。
 チャンちゃんも、シケ桃のお供をしながら、ぜんぜん偉ぶらない。単に犬並だからである。
 犬の子分は、猫の親分のお供をしながら、ぜんぜん偉ぶらない。親分のコンボが怖いからである。
 シケ桃とチャンちゃんは、互いに犬国の主になれるかもしれない。
 犬の子分は、猫国の主になれるかもしれない。
 猫の親分は、どこにいっても主になれないだろう。

 

 

【「うきゆい」と「つまどい」】
 どんな時代背景にあっても、一夫一婦の「つま」(夫、妻)でありたいことは、古今東西を通じての男女を問わない自然な欲求ですし、あらゆる生物界を通じての欲求です。
 『一夫一婦にするために「まごころ」をもって最大の努力を払います!』という「誓い」のことを【うきゆい】と申します。(p.241)
 このように、二人で共に発展繁栄するために、互いに心を動かさない努力を誓うことが【うきゆい】です。
 この【うきゆい】をなさってからの大国主命と須勢理毘売の「お心のありよう」は、こののち、永遠に変わらぬ「夫婦愛のお手本」となっていったのです。
 もちろん、【うきゆい】のあとにも、『夫としてこれでよいのか』『妻としてこれでよいのか』ということを自己に問いかけ、常に「みたましずめ」をして、夫婦ともに自己をかえりみるという修行はずっと続けていく必要があります。
 この自己を確かめ合う修行が、広義の意味での真の【つまどい】です。(p.242-243)
 大国主命は、沼河比売といったん結婚したのだけれど、須勢理毘売の激しい嫉妬にすっかり閉口した後、「たましずめ」と「お詫び」を経て、須勢理毘売とバツイチ婚をしている。
 まあ、結婚に至る過程がどうであれ、【うきゆい】と【つまどい】という修身を疎かにすると、斉家ならず、治国ならず、平天下もならなくなってしまう。

 

 

【岩戸開く】
 天宇受賣神は、言葉ではない表現としての「お神楽」を通して、以下のような素直なお心を天照大御神に直訴されました。
 『あなたさまは岩戸の内側へこもられて、いまやご自身をお照らしになる以外は何物も照らしてはおられません。他のものを照らせばこその「光」と言えるのではございませんか?
 他をお照らしにならないのなら、その御名に反して「お光なし」と申さねばなりません。・・・中略・・・。
 今や、外におります八百万神の中にも自発的な【和魂】が発現しつつあり、あなたさまの【和魂】が外部にも輝こうとしつつある次第です。
 どうぞ、今ここで、内外の区別を外して下さいませ!』

 全身全霊のその直訴に、天照大御神はとうとう内外の区別を外されて、見事に岩屋戸が開きました。・・・中略・・・。こうして、内側の天照大御神のあっぱれな弥栄の【清明心】と、外側の八百万神のあっぱれな弥栄の【清明心】とが、根源の一つとなって合一することができました。(p.196-197)
 日本神話を知る日本人は、「天の岩戸開きは、いつなのか?」と待望していただろう。

 

 

 下記リンクには、天照大御神はついに帰還を決意して下さったと書かれている。
    《参照》   天照大神 の帰還
 八百万神である日本人は、【和魂】全開で天照大御神の光を受け取り、
 これを日本中のみならず世界中に拡散しましょう。
 必要なのはイメージ力。
 意識のワークを実践するだけでいい。

 

 

  Mana(真名)著の読書記録

     『空 舞い降りた神秘の暗号』

     『空 天翔ける歓喜の弥栄』

     『深・古事記 神ながらの道』

     『宙が教える「受け取る」の仕組み』

 
 
 
<了>