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 ちょうど神道に興味が向き出した頃読んでいた本。94年以来の再読。日本神界に関してそれほど知識のない人のために説明をコメントに書こうと思ったけれど、時間がないからやめた。書き出し部分の頁は右のソフトカバー本の頁を記載した。88年初版。

 

 

【神道における求道の目的】
 神道における求道の目的は、要するに親神の操り人形として働けるようになるまで、自らの分けミタマを磨きぬくことにある。そして師匠の役割は、弟子を本人の親神と接触できるところまで導くことになる。その道程において、弟子というものは、場合によっては自分のすべてを預けて、師匠のロボットと化す覚悟をせねばならない。それが魔界の干渉を常に受けて進まねばならない求道者の、最も安全な道だからである。(p.8)

 

 

【神界劇を演じる人間】
 神界劇を演じる人間は、自らを他人と見れるだけの度量がなければならないし、使う側の神は、人間的な感情や意識を捨てきるまで、とことん人間を鍛え抜く。それに耐えられなければ、たとえ彼が九合目まで登っていたとしても、あっさり役目を剥脱されてしまう。神の道とは厳しいものである。ましてや時代の節目に特別な役を与えられた人間にとっては、「選ばれた者の恍惚と不安」などといった甘ったれた感情など入る余地もない、世間的な目から見れば悲惨な、いってみれば地獄絵のような試練が待ち受けているのである。
 地球維新の神界劇とは、乱れた神界の秩序を回復させるために、神々が人間を介して演ずる神秘劇なのである。(p.10-11)
 地球維新を成し遂げるために回復させなければならない“乱れた神界の秩序”。乱れの根源は、イザナギ、イザナミ、そしてスサノウ、アマテラスといった神々の乱れた不倫関係にあると書かれている。
 イザナミの場合は、いったい誰であったのだろうか? 夫イザナギであれば、たとえ死んだとしても罪にはなるまい。では、罪深きその相手は誰であったのか?
 ここにこそすべての問題点があるのである。アマテラスが日の本を乗っ取ったのも、地球の王であるクニトコタチが魔王に変じたのも、そして人類騒乱、天変地変が巻き起こる原因も、その発端はここにあったのである。(p.9)
 “乱れた神界の秩序”の根源となっている、イザナギ、イザナミ、スサノウ、アマテラスといった御魂をもつ人々の神界劇(人間模様)がこの本に書かれている。役割を負っている人々が心理的混乱を克服して成長できればいいけれど、それができなければ、日本も世界も正しい秩序に復することはない。途中で神界劇を投げ出してしまう人も出るのである。ハッピーエンドが確定しているシナリオではない。
 また“乱れた神界の秩序”は、日本に関わる周辺国家の軋轢にも反映している。
 著者の神界劇における役割は、スサノウ、そしてクニトコタチ、国でいえば中国である。

 

 

【二つの系統】
 世間をにぎわしてきた予言の数々を注意深く調べてみると、同じように世界の変革が叫ばれながら、そこに対立する二つの系統があることがわかってくる。近代日本の民衆を動かしてきた、黒住、天理、金光、大本の系統を見てみれば、黒住はアマテラス系統、天理は父神サイド、これを天津神の同系統とすれば、金光、大本は意外なことに、国津神の代表クニトコタチの復活を予言しているのである。
 それでは、世に名高いノストラダムスはどうであろうか? 黙示録をはじめ、キリスト教に連なる予言は等しく父神系統であり、ノストラダムスも現代アメリカの著名な予言者ディクソン夫人も、魔王の復活を許さぬ父神系統の預言者である。それにしてもキリスト教が封じ込めた魔王のイメージは、なんと陰湿で悪徳に満ちていることか! 同胞イエスキリストを拒否したユダヤ民族は、それゆえに反メシアの魔王教徒として迫害されてきた。(p.11-12)
 地球維新を成り立たせる神界劇のシナリオを簡略に言えば、イザナミ、スサノウ、そしてクニトコタチの復権ということ。世界史で言えば、日本とユダヤは同じ系統として連動することになる。

 

 

【ユダヤの神界劇と日本神話】
 ユダヤの神界劇を日本神話に置き換えれば、イエスキリストは父神イザナギ、裏切り者イスカリオテのユダは鬼神スサノオ(発展して魔王クニトコタチ)、そして母神イザナミは、罪深い女として人々から石で断罪されそうになった娼婦マグダラのマリアであった。イエスを生んだ聖母マリアは、神界劇の役者ではなかったのである。
 二千年前の神界劇は父神のドラマであって、魔王はあくまでも悪役、罪深い母神は脇へ追いやられ、まるで無関係の生母マリアが、母神の代わりに信仰されるという誤りを生む結果となった。失われた(落ちた)母神への人類の思いは深い。(p.11)
            【黒い像のマグダラのマリア】

 

 

【地球というすさまじい星】
 けがれきって盲になった我々人間こそ、いい面の皮である。
 本来ならば、人間は神に次ぐ高い地位にある存在だと言われている。それが、人間よりもはるかに劣る動物霊や魔物に、いいようにもて遊ばれてしまっているのが、現代の人間の哀れな姿なのである。人類数十億あるうちに、真の意味で人間といえる存在は、現在のところほんのわずかであるらしい。そのわずかな神格人間によって、かろうじて人類の生存は保たれている、と言ってしまっては言い過ぎかもしれないが、その神格人間同志が、その置かれた立場の違いから争っているのである。まったく地球という惑星はすさまじい星である。(p.36-37)
 なぜ殆どの人は、神格人間になれず、普通の人間になってしまうのか。

 

 

【神格人間になれないのは・・・】
 霊的に言えば、先祖霊とか動物霊とかいった死者の霊が、生まれ変わりなどと言って憑依して、ミタマをケガレで覆ってしまうのである。そのために神は人間のそばにいられなくなり去って行く。神道行法のミソギとは、ミタマや身体についたそのケガレを、一つ一つ取り除いていく行為をいう。(p.37)
 普通の人間として世間的に平凡生きるのであれば、先祖霊に憑いてもらってケガレた状態のままでいい。その方がむしろ生きやすい。しかし、神界に通ずる神格人間として生きるなら、この世的な欲望のために動いてくれる先祖霊とか動物霊といったケガレに憑いていてもらっては困る。
 ところが、神界というのは完璧な世界などではなく、人間界の歪みの根源が蓄積された世界だから、神格人間はむしろ過大な困難を体験しつつこれを克服しなければならない。普通の人間として生きる方がはるかにラクチンで、神格人間として生きる方が圧倒的に大変らしい。

 

 

【なにも神社に参らずとも・・・】
 「それぞれの領域においてトップになるほどの努力をした者には、自ずから神に通ずるものがあります」
 ・・・(中略)・・・ トップになるほど懸命に努力する者には、信仰の有無にかかわらず、その領域を守護する神々に、何らかの形で感応するということであろう。
 「なにも神社にお参りに来ずとも、一生懸命に心を傾け、心を磨けば神に通ずるのです。神が見るのは、人間の心の在りようを見るのです、人間と神との違いはそこにあります。神の偉大さは、人の心がどのような状態にあるかを見通すことができるところにあります。その心がどちらを向き、何を求めているかを見ることによって判断するのです。だから神社にお参りすることは、ある「意味でかえって恐ろしいことなのであす。神社に置いてある鏡は自分の心を写すもの。であるがゆえに身を清め、心を清める修行をした後にお参りすべきであって、今の人たちのように汚い心をさらけ出し、神に頼みごとをするために、お金をたくさん持ってくれば聞き届けてもらえるような考えでやって来る。そんなことをしても願いがかなわぬ現実が、その愚しさを証明しておりましょう。なにも神社に参らずとも一生懸命努力すれば、神に心は通ずるのです」 (p.139)
   《参照》   『神社が教えてくれた人生の一番大切なこと』 和田裕美 (マガジンハウス)
             【神様を信じてない私であったら・・・】