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 昔ヒットした数々の歌謡曲の作詞者として有名だった著者(1939年生まれ)のエッセイ。読んでいる途中で「時間の無駄だなぁ」と感じつつ、“途中放棄はしない“という自分の掟に従って何とか最後まで辿りついた。
 ここで語られているのは、専ら人対人の愛なのだけれど、そこから視点を離して考えない限り、閉じた世界を彷徨うことにしかならないのだから、どんなに言葉を紡いだって意味ないじゃんと思う。明らかに著者の時代を反映した前世紀の著作である。1972年7月初版。

 

 

【心に持ちこたえる愛】
 私が問題を投げかけたいのは、「心にある愛」を「心に持ちこたえる愛」という、精神の持続の中の愛なのだ。はたして長い間、この先5年、10年とその人を信じ、愛し続けていけるかどうか?(p.19-20)

 「愛するとは、尽きない油をもって輝くこと。愛されることは滅びゆくが、愛することは持続する ―― 」というリルケの言葉が印象に残っている。
 「自分で納得し、やっていけるのは、結局、自分の中にある愛だけなのだ ―― 」という私の大好きなピーター・フォンダの言葉!
 百年も隔たったふたりの言葉はどうやら、その表現と感覚の違いこそあれ、ほんとうは、人間の愛について同じことを言っているのだ。(p.41)
「心に持ちこたえる愛」という問題の解をもたらし得る主体が、このエッセイのタイトルになっているらしい。
 ところが、「自分の中にある愛」をあれこれ書きながら、執着心に囚われていたり、渇愛の様相を呈していたりで、当然のごとく安定した定点を見いだせていないのである。人や状況や物といった移ろいゆくモノの中に埋没して愛を語っているからである。

 

 

【肌に受けとめる愛】
 極言すれば、ロックは、若者がボディでとらえる音楽だ。
 ・・・(中略)・・・ 。言葉とか観念とか、説明なしに、肌と肉体でコミュニケートするのが、もっとも、正直な方法であることを、現代の若者は発見したのだ。そこには人種とか教養の差とか、環境の違いなどを越えて(全く愛によく似ている)、伝達、理解、喜び、興奮のシェアが行われる。(p.35)
 ロックと愛は、感覚(感性)的受容という点で同じだとしても、波動の繊細さが全然違う。
現代の社会意識に縛られている限り、肌や肉体を通じて愛の本質に至ることは至難だろう。
 楽しみや、ファッションや、暮らしの場面として、ボディとヴァリエイションが増えたことだけでも、素敵だと思う。 ・・・(中略)・・・ だから、フィジカルにセクシーであることは最高に良いことだと思う。(p.37)
 ビートルズ世代で、作詞家として成功し、頻繁に洋行を繰り返していたらしい著者がこの様に書くことで、日本人女性の文化性を破壊するオピニオンリーダーとなっていたんだろう。正直なところ、表紙の写真を見て、チャンちゃんは気持ち悪いと思う。
   《参照》   『装いかた上手』 植田いつ子 (海竜社)

            【語りすぎない装い】

            ~【究極の教養と知性、そして、エレガンス】
 ところが、以下のようにも書かれている。

 

 

【エレガンス】
 女らしい立ち居ふるまい。戸の開け閉め、会釈、茶の湯の時の手先・・・ある意味で男の人を引き立てる時なんか従来言われて、よしとされてきたものを、いまでもとても好き。
 それはエレガント。(p.86)

 女らしい恥のない人はきらいだ。
 「着たいものを着てどこが悪い!」って開き直る人は、この本をここまで読む必要もなかった人だし、一緒のあれこれ考える必要もない人だろうから・・・。(p.91)

 どの角度から、いつみられても、女らしい配慮のもとに、社会という機構の中では、むしろスポーティーなエレガンスをもって行動したいものだ。
 行動は難しい。男に比べると女は下手だし、弱い。
 男のアクションに対して女はムーブメントと考えたい。男は能動的で攻撃的であり、女性は流動的で感覚的だ。(p.88)
 著者は、現在から見て30年ほど先行していたサクセス・ウーマン(今風な表現なら 『アエラ族』?)の走りなのだろうから、まだこのような日本的な美を含んでエレガンスと表現していたんだろう。
 ところで、最後の文章にあるように、対比的な表現を用いながら用語が反対語でなかったり、時々突然詩的に表現されていたりで、男性読者には面食らってしまうような記述が、この本の中にはあっちこっちにある。

 

 

【女らしさ ―― 感覚】
 感覚こそ、もっとも女の特質であり、女らしさの基本だと思う。
 感覚的に物事を捉えるのは、女の特技かもしれない。正しくとらえるとか間違えてとらえるとかの結果を言っているのではなく、発露と過程においてだ。そして、結果だってそれでいい場合が多い。(p.89)
 女性の特質が感覚であるのは間違いない。男はこうはなれないのである。
 女性が感覚に優れているのは受容する器として作られているから。陰陽の理を無視して、男女間に権利意識を持ち込むと、受容性の器が機能停止してしまうから、女性の特質たる感覚も死滅するのである。女性から女性性が失われると、社会は確実に衰退へと向かう。
   《参照》   『生き方の原理を変えよう』 船井勝仁 (徳間書店)

             【女性(感性)の時代】

   《参照》   『ガイアの法則[Ⅱ]』 千賀一生 (ヒカルランド) 《中編》

             【男女(陰陽)という性差に関する人間観】 

               以下《後編の最後まで》

 

 

【作詞家】
 作詞は、純文学的詩とちがって、クリエイションでなく、むしろアレンジメントだし、ボエムでなくポエティクなのだ。
 その辺りが女である私に適しているのかもしれない。(p.136)
 書籍には、「女」の右側に強調のための「、」が打たれている。
 作詞というのは、ギンギンに独立独歩のたくましい男性的な仕事ではなく、むしろ、制約の中に、チーム・ワークのメンバーとして、最大限に、有効に調和すること・・・、それはこの世に生きていくことに似ている。
 いじけることでなく、押し出していくことでなく、平和に存在しあうことなのだ。(p.136)
 この記述から、著者は大和撫子の長所を失っていなかったことが分かる。

 

 

【愛と孤独】
 愛と孤独は同一人物なのかもしれない。少なくとも孤独は愛に因して、愛は孤独を住まわせる。
 ・・・(中略)・・・ 。
 孤独は恐がりさえしなければ、素晴らしい人生の先生だ。
 孤独を敵愾視しなければ、孤独は愛なのだ。
 ・・・(中略)・・・ 。
 むしろ、孤独の部分が人生で、あと仕事したり、誰かと食事したり、おしゃべりや、ボウリングしたりする部分は、かりそめの、かかわりあいにすぎない。すべてあてにしたら、いつ、事情が変わって、意味も魅力もなくなってしまい、自分で自分を裏切ってしまうかもしれないのだ。そう考える。
 自ずと孤独なのだ。劇的にではなく、ギン張ってでなく、衝撃的にでなく、やけっぱちにでなく、とても自然に孤独なのだ。
 孤独はむしろ、やさしさであり、慰めであり、清らかさであって、決して悪魔の館ではないのだ。(p.188)
 二元性(陰陽・男女)の世界で一人佇めば自ずと孤独は陰のように付きまとう。一元性世界の意識に至らない限り、孤独が埋め合わされることはない。だから、著者が書いているように、孤独を当たり前かつ積極的に考えて生きることが必要。
   《参照》   『サーファー・ショーンの教え』 セルジオ・バンバーレン (飛鳥新社)

             【孤独】

   《参照》   『吉本興業から学んだ「人間判断力」』 木村政雄 (講談社)

             【いい人をやめて孤独を楽しむ】

 

 

<了>