イメージ 1

 あとがきには「人間には、暗い闇の面ときらめく面があって、そのいずれもが命と心に結びついている」という主旨のことが書かれていた。「そりゃあ、そうでしょう」と思いつつも、「命」とか「心」をそんなに身近に感じていなかった今日この頃の皮相な心模様に気づけたりもする。1987年5月初版。

 

 

【樹齢七千年の「縄文杉」】
 七千年の老木だから、その杉の葉も、枯れがれとしているのだろうと思ったら、大間違いだった。・・・(中略)・・・。
 さらに驚いたことには、七千年の老木の枝という枝には、杉の実がびっしりと、ついているのであった。子孫を残すための実を、びっしりと、つけているのであった。
 「七千年の命が、音をたてて燃えているわ。すごい」と私は思わずつぶやいた。
 すると岩川さんは、
 「なにしろ、杉というやつは、すごい木でありますぞ。千年の杉でも、二千年の杉でも、倒れる瞬間まで、ちゃんと、杉の実をつけるんでありますで・・・」というのであった。
 すごいというよりも、素晴らしいと思った。
 死の瞬間まで、命の火を、ほうほうと燃やす。美しい生き方だ。(p.33-35)
   《参照》   『生きるも死ぬもこれで十分』 帯津良一 (法研)
             【絶好調で死のう】

 

 

【伊那谷の生活】
 南アルプスと中央アルプスにかこまれた谷を、伊那谷という。私の家は、その伊那谷の南アルプスの麓にあった。 ・・・(中略)・・・。
 飯田の町は、こういう田舎暮らしの人々にとって、あこがれの町であった。田舎の人々にとっては、はなやかな町であった。伊那谷の人々にとっては、飯田の町は、パリであり、ロンドンであった。(p.89)
 こう言う記述を読むと、現代人の我々は笑ってしまうけど、今から100年前(著者は1905年生れ)の日本の地方には、車なんてなかったのだろうから、数十キロ先のちょっと大きな町だって、とてつもない花の都だったんだろう。
 そんな田舎の自然の中で、肉体をフルに使った自給自足的な素朴な生活を送っていたら、感覚も命もきっとランランと輝いていたに違いない。
 私は折に触れて、ふと、祖母や父や母のことが思い出される。そして、その素朴な命のあり方を、懐かしく思うことがある。
 ことによると、生きるということは、命というものは、本来、素朴な、ほんとに素朴なものであるのかもしれない。(p.98)

 

 

【ハイジ】
 著者が子供の頃、市瀬先生に呼び出されて、お目玉か説教かと思っていたら、当時としては大変ハイカラなビスケットと・・・
 先生は、自分の幼い日のことを話し終わると、つっと立って、書棚から一冊の本をもってきた。
 濃い空色の表紙の本だった。
 いまでも、あの本のことは、はっきり覚えている。
 表紙には、朱で、ハイジと題名が書いてあった。訳者は上野弥生子であった。
 「こら坊主。いたずらばかりしておらんとなあ。たまには、こういう本を読んでみないか」 (p.117-118)
 私は、その日のうちに、松山に出掛けて、ハイジの本を読むことにした。
 まずハイジの心の清らかさにうたれた。
 心の美しいということは、素晴らしいことだなあ。と、しみじみ感じるのだった。
 物語の中の少女であったが、心の底から好きになった。
 この少女の悩みは、私自身の悩みだった。胸がきりきりするほど痛むのだった。この少女の悲しみは、私自身の悲しみとなった。涙がぽとぽとと、本の上に落ちるのだった。(p.119)
 『ハイジ』は、今でも日本の子供たちが選ぶ、№1アニメらしいけれど、ハイジ以外で心の美しさに泣いてしまうとしたら、『氷点』の陽子ちゃんだろう。
   《参照》   『脳が変わる生き方』 茂木健一郎 (PHP) 《後編》
             【一度それに触れると、一生忘れられないもの】
   《参照》   『ハイジ紀行』 新井満・新井紀子 (白泉社)

 著者にとって、『ハイジ』は感動を呼び起こす貴重な本だったけれど、著者の故郷である伊那谷の「しらくも君」にとっては『ジャン・クリストフ』だった。下記リンク書籍にそのことが書かれている。
   《参照》   『感動は心の扉を開く』 椋鳩十 (あすなろ書房)

 

 

【母の声で物語を読んであげる】
 昔と違って、すぐれたおはなしの本は山ほど出ている。
 そういう本を子どもに読んでやるということは、母と子の心と心に橋をかけることになるのだ。・・・(中略)・・・。
 子供にとっては、母は絶対だ。その母と、あったかい心で、向いあっていることは、子どもにとっては幸福なのだ。(p.133)
 最近は、何処の図書館でも「読み聞かせ」のイベントをやっているけれど、本当は、お母さんが自分の子供のために読んであげるのが一番いいのは言うまでもない。
 チャンちゃんの場合は、お爺ちゃんが毎晩寝付くまで昔話をしてくれた。「こうばやんひったかい」とか「ピピンぴよ鳥」とか「雀のなんとか・・」とか、5つくらいのバージョンがあったような気がする。子どもって同じ話を何十回聞かされても全然飽きないし、勝手な脚色だって全くOKである。
 今のチャンちゃんなら、思いっきりデタラメな話を、果てもなく話してあげられるだろう。どんなにデタラメな話だって神霊界においては瞬間瞬間に実在するのだから、それは立派な魔法遊戯なのである。
 幼少期の子供から荒唐無稽な世界を奪ってしまったら、大人になってから精神が歪むのである。チャンちゃんはビジネスの世界を生きる過程で魔法遊戯ができなくなったから、大人になって歪んだ。だから、『アサッテの人』 のメンタリティが良くわかる。

 

 

【人間の幸福の基(もとい)】
 アメリカ国内に実在するアーミッシュ村について、言及している章がある。
 人間の幸福って、何だろうと、アーミッシュランドを歩きながら、私は思うのであった。(p.159)
 思っているだけで、アーミッシュの村を通じて得られた、著者なりの「幸福のエッセンス」らしきものは記述されていない。
 昨日の読書記録で、日本国内にもある「自給自足村」のことを書き出しておいたから、アーミッシュの記述に心が留まったのだけれど、「人間の幸福の基(もとい)」は、おそらく「安心」だろう。
 現代文明を成り立たせている諸観念は、すべてお金にリンクしているから安心を脅かす。アーミッシュのような宗教的原理に即した自給自足社会は、現代社会側から見れば停滞社会に思えるものの、内側にいる人々にとって「安心」は盤石なんだろう。

   《参照》  『なぜ、脳は神を創ったのか?』 苫米地英人 (フォレスト出版) 《前編》

           【ピューリタンが新大陸を目指した理由】

 「現代文明を拒否することなく、宗教の原理主義にもよらずに、安心できる社会」を築ける国が地球上に在るとしたら、間違いなく日本だけである。日本は、21世紀の世界にそのような範例を示さなければならない。

 

 

<了>
 

  椋鳩十・著の読書記録

     『命ということ心ということ』

     『感動は心の扉を開く』