
タイトルにつられて手にした本。なぜ「少女」ではなく「女性」なのかという思いもあった。『ルパン三世カリオストロの城』のクラリス、『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『天空の城ラピュタ』のシータ、『もののけ姫』のエボシ、『千と千尋の神隠し』の千尋を題材として御自身の言葉を紡いだ著作。2004年11月初版。
【宮崎アニメの女性たち】
《参照》 『英語コンプレックス脱出』 中島義道 NTT出版 (前編)
【日本はアニメの世界のみで女性上位???】
宮崎アニメの女性たちはジェラシーから醜く争い合うようなことがない。(p.20)
女の子は男の子に比べて生物学的に早熟だというからジェラシーの思いは案外早い時期に生じるらしい。でも宮崎さんは男性だからそんなことには頓着していないか、もしくは、高貴な役割を担わせるためにあえて人間的な感情の世界から超脱させているのだろう。チャンちゃんは、宮崎アニメの主人公たちは、「女性」ではなく神性を秘めた「少女」であるからこそ成り立っていると思っている。《参照》 『英語コンプレックス脱出』 中島義道 NTT出版 (前編)
【日本はアニメの世界のみで女性上位???】
【著者は女性】
『ラピュタ』のラストにおいても、ボサボサのショートヘアで戻ってきたシータに対して、船を失うことより「髪の毛を切られるほうがよっぽど辛いさ」とドーラに言わせ、キレイでありたいという女心への理解もしっかりと示されているところは、同性としてなんとも微笑ましく感じられる。(p.43)
この記述を読むまで、著者の性別を意識していなかった。プロフィールを読むと1977年生まれとあるから執筆時27歳の女性である。このような客観的事実を知ることで、読みつつ反りの合う箇所と合わない箇所があることに不必要な違和感を持つことはなくなったけれど、この記述以降、ドライに割り切って読んでしまったので、心に響く度合いが減ってしまったような気もする。
【クラリスのようなただ一人の少女の存在を・・・】
あとがきの、いちばん最後に書かれている文章。
全ての作品は自分の心を映す鏡であることが、この著作のどこかに書かれていたけれど、多くの人々にとって宮崎アニメの作品群は自分を表現するのにうってつけなんじゃないだろうか。特に若い頃は純粋な部分が多く残っているから、宮崎作品という純粋な精神性を強く有するスクリーン上に自分の心が透明に歪みも少なく映るのだろう。
“クラリスのようなただ一人の少女の存在を、改めて信じてみようと思いました“とあるけれど、そのような精神性こそが文学や芸術の端緒となるものだと思うから、このような自己解釈的著作をむしろ好ましく思いつつ読んでいたのである。そもそもこのポイントを欠いているのなら、いかなる作品であれ余り書かれる必要はないように思ってしまう。
「渡り鳥夫婦」というブログを書いておられる松本牧師さんと三浦綾子の作品について話す機会があった時、牧師さんは、「三浦綾子の作品には純粋無垢系とドロドロ系があり、後者の方が作品としては多い」と話してくれた。チャンちゃんが読んだことのある三浦綾子の作品は2つだけ。『氷点』と『塩狩峠』は明らかに前者だから、「よかった、高校生くらいの時期までに読んでおいて」と胸をなでおろすようなことを言ったのであるけれど、牧師さんも頷いていた。
ドロドロ系は現実を忠実に映しているけれど、そこに埋没してしまったらチャンちゃんなんかは即座に窒息してしまう。泥の中に茎を這わせて可憐に咲く蓮の花の例えは成熟した人間が持つべき後天的な叡智ではあっても、先天的な純粋性が有する叡智を超えているとは思えない。
宮崎アニメの色彩は天空との通い路である純粋な系を象徴していると思うから、苛烈でドロドロな現実を描いていたとしても希望を失わずにいられるのである。童や少年や少女の心を全くなくしてしまったら人は窒息してしまうだろう。そんな大人ばかりになってしまったら人類に明日はない。宮崎アニメは、現実世界に天空からの新鮮な空気をもたらして換気しつつ、大人たちに対しても子どもの頃に持っていた純粋な思いを喚起させているはずである。
あとがきの、いちばん最後に書かれている文章。
青臭い精神論と笑われることを承知でこの本の原稿を書きはじめた頃は、出版のめどもたっておらず、自分自身に負けてしまうと言葉が出てこなくなってしまうことも度々でした。けれども私は、滑稽に映るやもしれない自分の姿を真剣なまなざしで見つめるクラリスのようなただ一人の少女の存在を、改めて信じてみようと思いました。宮崎さんの作品をお借りして、この本に託したメッセージが誰かの心に届いたとしたら、私にとってこれほど嬉しいことはありません。(p.79)
この本を、宮崎作品を題材にした著者なりの心理小説と思って読んでいたから、書き手としてのこの記述を最後に読んですんなりと納得がいった。全ての作品は自分の心を映す鏡であることが、この著作のどこかに書かれていたけれど、多くの人々にとって宮崎アニメの作品群は自分を表現するのにうってつけなんじゃないだろうか。特に若い頃は純粋な部分が多く残っているから、宮崎作品という純粋な精神性を強く有するスクリーン上に自分の心が透明に歪みも少なく映るのだろう。
“クラリスのようなただ一人の少女の存在を、改めて信じてみようと思いました“とあるけれど、そのような精神性こそが文学や芸術の端緒となるものだと思うから、このような自己解釈的著作をむしろ好ましく思いつつ読んでいたのである。そもそもこのポイントを欠いているのなら、いかなる作品であれ余り書かれる必要はないように思ってしまう。
「渡り鳥夫婦」というブログを書いておられる松本牧師さんと三浦綾子の作品について話す機会があった時、牧師さんは、「三浦綾子の作品には純粋無垢系とドロドロ系があり、後者の方が作品としては多い」と話してくれた。チャンちゃんが読んだことのある三浦綾子の作品は2つだけ。『氷点』と『塩狩峠』は明らかに前者だから、「よかった、高校生くらいの時期までに読んでおいて」と胸をなでおろすようなことを言ったのであるけれど、牧師さんも頷いていた。
ドロドロ系は現実を忠実に映しているけれど、そこに埋没してしまったらチャンちゃんなんかは即座に窒息してしまう。泥の中に茎を這わせて可憐に咲く蓮の花の例えは成熟した人間が持つべき後天的な叡智ではあっても、先天的な純粋性が有する叡智を超えているとは思えない。
宮崎アニメの色彩は天空との通い路である純粋な系を象徴していると思うから、苛烈でドロドロな現実を描いていたとしても希望を失わずにいられるのである。童や少年や少女の心を全くなくしてしまったら人は窒息してしまうだろう。そんな大人ばかりになってしまったら人類に明日はない。宮崎アニメは、現実世界に天空からの新鮮な空気をもたらして換気しつつ、大人たちに対しても子どもの頃に持っていた純粋な思いを喚起させているはずである。
<了>