イメージ 1

 久しぶりにジェームズ・アレンノ著作。19世紀から20世紀初頭にかけて生きた方だから、宇宙文明との交流に向けて展開段階にある現時点で読んでみると、いかにも地球生命系内部に住む人間用の良知(道徳)止まりという感じである。とはいっても我々は地球生命系の法則に支配されて生きているのだから、ジェームズ・アレンの著作はいまでも宗教的なドグマによる偏向を排した生き方を示した基本である。自分自身の日頃のズレを矯正すべく読んでみた。2004年4月初版。

 

 

【魂の要求】
 なによりも最優先にしたい課題は、なまけグセ、甘えを克服することです。これは、いくら強調しても、しすぎることはありません。もしそれを怠るなら、進歩はおぼつきません。なぜなら、「大いなる真実」へ到達するためには、魂(スピリット)の要求は絶対だからです。
 魂が覚醒するということは、心身ともに覚醒することでもあります。なまけ者や、快楽に耽溺する者が、真実の智恵を手にいれられるはずがありません。健康と強さに恵まれていながら、貴重な朝の静かなひとときを、だらだらと無為に過ごす人は、天国への階段を上がるには、不適当このうえないのです。(p.22-23)
 なまけクセや甘えというのは、確かに著しく心身を劣化させる。
 座禅を志して永平寺などに行ってみたいと思うのは自由だけれど、ヒーリング的な瞑想感覚で参禅する程度の思い入れようなら、すぐに音を上げることだろう。決して心身を甘やかせない厳しい日常の規律に従うことが覚醒の準備段階となっているのである。
 神道では「覚醒」という表現ではなく「御魂の発動」と表現するけれど、なまけクセや甘えに満ちた柔弱な生き方では「御魂が発動」なんかするわけない。下記リンクにある白隠の言葉がそれを示している。
   《参照》   『こんな恋愛論もある』 深見東州 (たちばな出版)
             【没入、忘我で顕現する動中の静】

 

 

【エゴの克服】
 エゴによって動かされている人間は、富、安楽、あるいは生命を失うことを、人間に起こりうる最大の悲劇と見なしています。一方、「大いなる法則」にしたがう人にとっては、これらの出来事は、徳性を失うこと、「大いなる真実」を失うことに比べれば、さほど重要ではありません。彼らにとって唯一の悲劇は、「大いなる真実」を捨ててしまうことだけなのです。(p.70)
 タイトルの『大いなる不変の法則』とは「エゴが克服できている場合の法則」と言い換えることができる。この本の記述は、「エゴの克服」に関することを専らとしているけれど、地球生命圏で生きながら本当にエゴ(仏教的な表現では煩悩)を克服できている人は稀だろう。口先だけの人ならいくらでもいる。
 物質的に恵まれ、優雅な暮らしを満喫している人にとって、「わたしは、平和、人類愛、普遍的愛を信じています。どんなことがあっても絶対にそれを固守してみせます」といいきるのは、いともたやすいことです。ところが、状況が一転し、彼の物質的安楽が脅威にさらされる、あるいはその兆候が見えだしたらどうなるでしょう? 彼はとたんに戦いだと声高にわめきだし、彼が信じ、また支持しているのは、平和、人類愛どころか、争い、エゴイズム、憎しみのほうであることを露呈してしまい、馬脚をあらわすこともあるでしょう。(p.70-71)

 

 

【苦しみの針が人間愛をつらぬくとき】
 苦しみの針が人間愛をつらぬくとき、不安や孤独や裏切りが、友情や信頼をくもらすとき、魂は永久に変わることのない愛という避難所へと向かいます。そこに静かなる平和という休息所を見つけるのです。(p.90)
 「人を信じることができないからこそ・・・」とか、「人が報いてくれないからこそ・・・」という落胆や悲しみの反照として「愛という避難所」を見出すのって、良くありうる心理過程であろうけれど、ちょっと違う気がしている。なぜなら、「愛という避難所」「平和という休息所」への期待が心に残留している限り、そこは人心を投影した仮初の場所だからである。あらゆる期待を手放さないと、本当の「自由」には至れない。あらゆる期待を手放すことの最上手は「与えること」だろう。

 

 

【世界で最高の貢献者】
 金持ちは、貧しい人をさげすむ姿勢をあらためましょう。同様に、貧しい人は、金持ちを批判するのをやめましょう。強欲な人間は、与えるすべを学びましょう。肉欲的な人間は清らかになるすべを。派閥主義者には争いをやめるすべを。無慈悲な人は人を許すすべを。ねたむ人は、人と喜びを分かち合うすべを。誹謗中傷を好む人は、みずからの行いを恥じるすべを。全人類にこの方針をゆきわたらせましょう。するとなにが起こるでしょう。さあ、黄金時代はあっという間に目の前です。みなさん、もうおわかりでしょう。自分の心を清らかにする人は、この世界で最高の貢献者なのです。(p.101-102)
 これを読んで法華経の「無量義経十功徳品」の中にある、似たような文言を思い出す。
 「この経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起こさしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起こさしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起こさしめ、愛着ある者には能捨の心を起こさしめ、諸々の慳貪の者には持戒の心を起こさしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起こさしめ、諸々の散乱の者には禅定の心を起こさしめ、愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ、・・・。」
 大乗仏教の教えって、もちろん間違ってはいないけれど、この地球生命圏に住む人間たちに対して本当に効果的だろうか? というのが学生時代、長らく持っていた疑問だった。だから、同じ大乗仏教の中でも後期大乗仏教と言われる密教に興味が向かっていったのである。大学生時代の私の中では、「教えだけの法華経」に対して「実践(即身成仏)の密教」という位置付けだったのである。近年は「宇宙文明から照射した場合の地球宗教の限界」という感じで捉えがちである。(『秀真伝』や『竹内文献』によれば、神道のルーツは宇宙宗教だったといえる)
 上記書き出しにあるような、「世界で最高の貢献者」としての状態を維持できるのは、本当に筋が良い人だけだろう。チャンちゃんみたいなアホンダラは、だからこそ人間改造による密教や宇宙レベルでの愛へとシフトして行かざるを得なかったのである。地上道徳的視点を異なる次元へ移し替え相対化する過程で、客観的理解という学びの成果がもたらされたことは事実だけれど、それ故にこそ、主観的地上社会的自律の教えの効果が希釈化されていたのも事実である。だから今、この本からそれに関する記述を書き出して再確認している。
 おそらく、未熟な愛を高めて行くのに最も効果的で確実な方法は、高度な霊格者の庇護の許、人さまの霊的救済経験を積むことだろう。霊的な世界を実地体験できれば、「教え」なんてほぼ不要である。霊界の実地体験は即因果の実例として認識できるからである。私の知っている範囲でそれができるのは、深見東州先生の庇護のもとで救霊師として学ぶことである。人生で学ぶべき因果の法則を最も如実に体験できるだろう。下記リンクは深見東州先生のお弟子さんが書いた本である。
   《参照》   『不運の原因 霊を救え』 霊厳院崇皇 (たちばな出版)

 

 

【バガヴァッド・ギータ】
 クリシュナは王子アルジェナにこう言った ――
 謙虚であること、誠実であること、誰をも傷つけぬこと、
 忍耐強いこと、賢人をあがめ、尊敬し
 純粋で、意志堅固で、自己を律し
 感覚を喜ばせるものをさげすみ、自己犠牲をはらい
 悪しきものを見極め
 生、老、病、死、苦、あやまち、幸、不幸にあって
 心を騒がせず
 至高の魂の到達に向かって、ひたすら専心し
 人生で起こるすべてを、進んで理解しようとつとめること
 そうすれば、到達できる!
 王子よ! これこそが真の英知である!
 これ以外のものはすべて無知なのだ!
 (バガヴァッド・ギータ) (p.148-149)
 世界の先進国の書店では、日本の書店より、精神世界の本が締める書棚の割合ははるかに多いと言われている。日本で精神世界の本がブームになったのも、アメリカ西海岸で起こったカウンター・カルチャー・ブームの影響を受けていたからなんだろう。日本人ならインドの書物といえば、ブッダの語りであるダンマパダ(法句経)などの経典を想起する人が多いと思うけれど、欧米経由の影響を受けてか、精神世界の本にはヒンズー教の経典の一部であるバガヴァッド・ギータに言及している本の方が多いように思う。
 ジェームズ・アレンがギータに言及していた箇所があったなんて、この本で初めて知った。
 バガヴァッド・ギータという単語を目にして、ちょっと懐かしかったから、書き出しておいた。

 

 
<了>
 
 

  ジェームズ・アレン著の読書記録

     『大いなる不変の法則』

     『人生がばら色に変わる50の言葉』

     『「意志」と「人生」の法則』

     『「原因」と「結果」の法則2』