《前編》 より
 

 

【ダーガーの絵画・物語と 『セーラームーン』 】
 ヘンリー・ダーガーは、7歳にして南北戦争について教師顔負けの知識を披露するほどの知性を持っていたけれど、生来の内気さから知的障害者と判断され、施設から施設へと転々としながら一生を病院の雑役夫として過ごしたアウトサイダー・アーティストなのだという。彼は 『非現実の王国』 という作品を残している。
 ダーガーの絵画・物語と 『セーラームーン』 とは、奇妙なまでに類似している。いずれもが、思春期のジェンダー的分割の手前に佇んでいる少女たちが、ある使命感のもとに団結し、凛々しい戦士となって巨大な悪に立ち向かうという物語において共通している。(p.130)
 ダーガーの物語では少女の数は7人。 『セーラームーン』 は5人であり、それぞれに水星、金星、地球(セーラー月)、火星、木星の化身なのだけれど、違いはこの程度らしい。
 ダーガーの作品では、少女たちが絶望的な窮地に陥ったとき、どこからともなくキャプテン・ダーガーなる大人が出現して、彼女たちを救出し、勇気づける言葉を与えると、再び去ってしまう。 『セーラームーン』 でのこのキャプテンの役割を果たしているのが、タキシード仮面である。この大人の正体は不明である。(p.131)
 チャンちゃんは、 『セーラームーン』 の少女たちを救出した大人は、人間の大人ではないと思っているから、この点において、著者の
 成熟によって保護されたとき、はじめて未成熟は 「かわいく」 輝き、世界を親密にして善に満ちたユートピアに変えることができる。(p.131)
 という、成熟(大人)・未成熟(子供)とに二分する西欧文化起源の解釈には、乗り気になれない。
 ならば、タキシード仮面をどう解釈するかというと、「太陽系を守る銀河系の主催者」 と解釈するのである。『セーラームーン』 は明らかに、アセンションと言われている現在進行中の宇宙次元での出来事を、無垢なる少女たちから無垢なる日本の子供達に対して、象徴的にではなく確かな波動を込めて伝えていたのである。

 

 

【日米の魂のレベル違い】
 最後に考えなければならないのは、こうした物語がアメリカにおいては、誰にも知られることなく秘密裏に執筆され、その公開が文化的スキャンダルを呼ぶ半面、日本にあってはお茶の間で子供たちが、心ときめかしつつ毎週の放送を待ち望むアニメとして、高い視聴率を続けていたという事実の違いである。(p.131)
 日本人の方が、魂のレベルにおいて、平均値が遥かに高いということである。
   《関連参照》   『「びっくり現象」こそ決めて』 船井幸雄 (あ・うん)

                【意識レベル】

 

 

【 「かわいい」 の脱政治性 】
 若者たちのストリートファッションは、ロンドンのパンクやモッズと違い、対抗文化のもつ政治性をいっさい感じさせない。彼らは 「かわいい」 がゆえに、そうした服装を選択するのだ。80年代の丸文字と 「のりP語」、90年代の 「オタク」、そして2000年代の 「萌え」 ブームまで、日本の 「かわいい」 文化は世界のサブカルチャーのなかでも。徹底した脱政治性において独自のものといえるだろう。(p.14)
 下記の著作にある 「タブーのなさ」 は 「脱政治性」 でもあり 「脱宗教性」 でもある。
      《参照》  『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』 杉山知之 (祥伝社) 《前編》

                【日本マンガが海外で価値を持った理由:タブーのなさ】

 その他にも、海外で爆発的に受け入れられた理由として 「脱日本文化性」 とか 「文化的無臭性」 という側面も明らかにあることはある。しかしそれは 「かわいい」 という枢要な一面を除外した場合である。
      《参照》  『カラオケ・アニメが世界をめぐる』 白幡洋三郎 (PHP研究所) 《前編》

                【スーパーマリオの無国籍性】

 

 

【根底に存在する相容れない文化性】
 日本では、子供の神性に属する面は、むしろ守られてしかるべきものと考えられているけれど、欧米では、大人の成熟に対する子供の未成熟という文化的断見によって、強く否定されてしまうのである。だから、
 アメリカの少女たちはほぼ12歳くらいでキチィーちゃん離れを起こし、見向きもされなくなってしまう。だが、東アジア、とりわけ日本の女性にはそうした決別の現象はなく、成人してからもキティちゃんを愛好する者がいくらでもいる。(p.178)
 猫の親分なんて30過ぎたって、キティーちゃんを欲しがっていた。少々あきれる幼児性だけれど、この様な傾向は、日本人とすれば決して否定すべきものではないから、犬の子分はとりたてて文句を言わなかったしこれからも言わない。「勝手にすれば~~~」 である。
 先にキティちゃんの受容年齢が、アメリカと東アジアとでは大きく異なっていることを指摘しておいた。この事実が物語るのは、キティちゃんがけっして完全に無色透明な存在ではなく、それぞれの文化によって異なった受容のされ方をもつ、異文化からの到来者であるという事実である。 ・・・(中略)・・・ 。真に問うべきなのは、その社会が少女の成熟と未成熟とをどのように分節化し、価値付けているかということに、大きく関わっている。
 このとき、キティちゃんを単に限定された幼年期の玩具として以上にある近しさのもとに受け取ることのできる文化として、東アジアの国々のもつ独自性が浮かび上がることになる。(p.184-185)
 欧米文化は、幼児性を受容しないから、アメリカでは 「鉄腕アトム」 のあの 「かわいらしい顔」 ですら、青年風に変えて放映していたほどである。
   《参照》   『アトム・ジェネレーション』 小池信純 文芸社

               【日本文化としてのアトム】

 下記のリンクは横道にそれてしまうけれど、鉄腕アトム関連。
   《参照》   『ガラスの地球を救え』 手塚治虫 (光文社)

               【アストロボーイ】

 

 

【「かわいい」 という言葉をめぐる政治性】
 わたしはある時、ニューヨークの女性編集者と 「かわいい」 をめぐる話をしていたとき、現在のアメリカでは女性を不用意に cute と呼ぶことは、政治的公正さを無視した差別擁護の運用に当たることになると、強い口調で言われたことがあった。 ・・・(中略)・・・ ともあれ cute には、それに固有の支配の力学があり、それはすぐれて政治的なものとなりうることを、わたしはこの時の対話から知った。(p.16)
 先に日本における 「かわいい」 の脱政治性に関して書き出しておいたけれど、何でもかんでも支配・被支配という関係性から政治的に正しいか否かを判別したがるアメリカでは、cute という単語ですらこうなってしまうのである。
 わたしの見聞したかぎり、「かわいい」 に対してもっとも深い憎悪を示したのは、社会学者の上野千鶴子である。 ・・・(中略)・・・ 。人から 「かわいくない女」 と呼ばれていることを得意げに披露し、老後にあっても 「かわいいお婆ちゃん」 であることを拒否したいと、堂々と抱負を述べている。(p.16-17)
 上野千鶴子さんは、 「“柔よく剛を制する” 女性たちが支えてきた世界に冠たる日本文化」 が全然理解できていないだろう。 「かわいい」 の国別文化的解釈の相対化すらできていないのである。御自身の知の基準が完全に欧米基準であり偏頗なのである。
 女性が “剛” となって論陣を張ろうとすること自体がそもそもからして日本人女性の本質的強みを無視したエラーなのであるけれど、そのうち多くの素直な日本の少年少女たちが大人になる頃には、見向きもされなくなるはずである。
   《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《前編》

              【経度0度と経度135度の文明的特徴】

 

 

 以前、似たようなことを書いていた読書記録があったのでリンクしておこう。
   《参照》   『英語コンプレックス脱出』 中島義道  NTT出版 (前編)

              【日本はアニメの世界のみで女性上位???】

 

 

<了>