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 図書館でこの本を見つけ、なんとなく読んでみようと思い手にしてみた。この本は、戦後から昭和50年代まで日本の学校で使われた小学校高学年の道徳教科書・副読本の中から、もういちど読みたい文章をよりすぐった作品集です。(p.9) とあるから、1945~1975年の間に使われていたものということになる。

 

 

【心の糧 ~ 『私たちはどう生きるか』 から~ 武者小路実篤】
 まい朝起きるとき、きょうこそ一歩前進してやろう、今までできなかった仕事をきょうはひとつものにしてやりたいものだと思う。 ・・・(中略)・・・ 自分は70近いが、いまでも過去のことはあまり考えず、きょうこそは、きょうこそは、ものになりたいと思っている。それでいつも新鮮な気持ちで、年を忘れていられる。 ・・・(中略)・・・ 若い人たちはなおげんきに、したいことだらけで、まい日げんきに朝がくるのをまちかねているのだろうと思うがどうですか。
 一日をたのしく暮らしていますか。一日一日なにかの意味で進歩しようとしていますか。(p.12-13)
 この本のいちばん最初に掲載されている作品である。
 70歳の筆者からみたらまだまだ若造なのに、「はい」 と言えずびびってしまった。
 武者小路実篤さんの生き方は、まさに神道的人生観の実践だろう。日々生成化育する宇宙のあり方に則して、人もまた進歩向上を目指し生きる。過去や未来に囚われることなく、只今に専念して進歩向上を目指す。それが神道的人生観というものである。向上心を失ってしまっているのならば、宇宙のあり方からはずれてしまっているのである。
   《参照》   『人類が生まれた秘密をあかす』 深見東州 (たちばな出版)
              【人類誕生の理由】

 

 

【燈台守り ~ 『平生のこころがけ』 から~ 小泉信三】
 事小なりと雖も、寄港の先き先きから燈台守りに、感謝のハガキを出したという船長の心掛けを、私は床しく思う。そうして、さらに今の社会に、この燈台守りの如く、知られず顧みられず、黙々とその職務を行うものが、無数であることを思うのである。(p.26)
 この記述に次いで、野球における捕手の様子が書かれている。
 打者が内野ゴロを打ったとき、一塁手が後逸した場合のために捕手は一塁側へ走り、そして戻ってくるということを繰り返しているのである。実際にそれが役立つ公算は非常に少ないけれど、怠ってはいけない重要なプレーであるとして記述している。観客は誰ひとりこのプレーに注目しないだろうけれど、「顧みられないからやらない」 という人生観は、極限的に不毛である。
   《参照》   『なぜ、働くのか』 田坂広志 (PHP研究所)
           【「仕事の思想」の第二の原点 : 「一隅を照らす、これ国宝なり」】

 

 

【生命の力 ~ 『心窓記』 から~ 下村湖人】
 「岩割の松」 を訪れたとき、先生が話してくれたこと。
 「この松を見たら、お前たちは、命と言うものがどんなもんだか、よくわかるだろう。命ある者は、命のないものよりは、結局強いのだ。」 ・・・(中略)・・・ 「しかし卑怯な命は役に立たない。卑怯というのは、自分の境遇におびえたり、正しい道をふまないで、ごまかして世の中を渡ったりすることだ。松の種は岩の割れ目におちた。芽を出し、根を張るにはすいぶんみじめな境遇だったのだ。しかし松の種はその境遇にまけなかった。 ・・・(中略)・・・ 」
 私たちには、先生のいわれることが少しむずかしかったのですが、しかし大よその意味は分かりました。先生がつづけていわれるには、
 「・・・(中略)・・・ お前たちは卑怯であってはならん。日本のために、そしてお前たち自身のために、どんな苦しいことがあっても、その苦しさと真正面から戦って行くことが大切だ。」 (p.40)
 松という樹木はすごい生命力を持っている。土の下が岩盤である場合、根はその上を横に張って、僅かばかりの隙間を見つけて下へと根を伸ばしてゆく。京都の鞍馬寺に行けば、そのような驚くべき情景を目にすることができるだろう。
 現在の日本は、戦後間もない頃から比べたら恵まれすぎていて、松の例えがいまいちピンとこない人が多いのだろうけれど、「松竹梅」 は日本文化の基本だから書き出しておいた。
   《参照》   日本文化講座 ② 【 松竹梅 】
             【松】

 

 

【樹の根 ~ 『偶像再興』 から~ 和辻哲郎】
 高野山へ上った時に見た “檜の老樹” ことを書いている。
 私の目はすぐに老樹の根に向かった。地下の烈しい営みはすでに地上一尺のところに明らかに現われている、土の層の深くないらしいこの山に育ってあの亭々たる巨幹をささえるために、太い強靭な根は力限り四方へひろがって、地下の岩にしっかりと抱きついているらしい。あの巨大な樹身にふさわしい根はいったいどんなであろう。 ・・・(中略)・・・ 。
 私は老樹の前に根の浅い自分を恥じた。そうして地下の営みに没頭することを自分に誓った。今きづいてもまだ遅くない。(p.71-72)
 目に見えない部分、目に見えないものに対して想像力を働かすこと。それが道徳というものの根幹だろう。

 

 

【一千人の父母となって ~曾田嘉伊智とその妻~】
 1916(大正5)年、12月のある日。
 きびしい寒さにこおる京城の街をひとりの男が歩いていた。手ぶらではない。古ぼけた大八車をひっぱってである。 ・・・(中略)・・・ 。
 男の名を曾田嘉伊智といった。
 かれはまぎれもない日本人だ。山口県生まれ、49才。車に積んだのは、あちこちでもらいあつめたこども用の古着と食料品である。かれがかえっていく 「鎌倉保育園」 には、大ぜいのこどもたちが、首を長くして、それらを待っている。(p.174-175)
 曾田嘉伊智が韓国で大勢の子どもたちを育てるようになった動機は・・・。
 曾田嘉伊智が、韓国にわたったのは、明治38年、かれが38才のときである。
 台湾を旅したとき、山のなかで行きだおれになっているのを、韓国人にたすけられた。そのうれしさがわすれられず、なにか、韓国人のためになることをしていきていきたい、というのが、嘉伊智の、韓国へわたった動機だった。(p.176)

 京城三坂通りの、曾田家のささやかなすまいは、しばらくするうちに、嘉伊智のひろってきたすて子、知人からたのまれたみなしごでいっぱいになった。(p.178)

 年月がたち、はたらきざかりだった曾田嘉伊智ふさいにも、めっきり、老いのかげがこくなった。
 しかし、なんというよろこびだろう。そのあいだに、ふたりの手あつい愛の手にかかった孤児は、もう千人を超えていた。(p.179)
 それほど裕福だったのでもない曾田夫妻が、それだけの子どもたちを育てることができたのは、現地のみなさんの多大な援助や協力があってのことだったのだろう。
 ところで、曾田嘉伊智さんは、戦後間もない頃、一度日本に帰国したら、日韓関係が悪くなり韓国へ帰国できなくなってしまい、その間に、妻のたきさんは急性肝炎で死んでしまったのだという。
 大韓民国政府は、たきの葬式を、とくに 「政府葬」 として、ていちょうにおこなった。そして、大臣・知事・市長らは弔辞で、たきのことをいっせいに、「慈母」「聖なる天子の化身」「民族の母」 などと、ほめたたえたという。
 妻の死をしらせてきたたよりのなかの、この報告は、嘉伊智のせめてものなぐさめだった。(p.180)
 日本に足止めされていた嘉伊智さんの消息が朝日新聞に掲載されると、日韓両国で反響がわきおこり嘉伊智さんの願いが叶う時が来た。
 1961(昭和36年)年3月11日、永楽保隣院(嘉伊智のひらいた保育園が元になってできた施設)理事長のハン・ギョンジフ氏から、「ぜひ思い出のソウルへおいでください」 という招待状がとどいたのである。
 ・・・(中略)・・・ 。
 嘉伊智の第二のふるさと韓国での、しずかな、そしてしあわせな日々が、それから約11カ月韓国の人々のふかい感謝といたわりのなかでつづけられた。
 96歳の嘉伊智が、思い出の永楽保隣院でやすらかに眠るようにして、たきの待つ天国へ旅立ったのは、1962(昭和37)年3月28日のことだった。(p.181-182)
 この人物伝が、いつまで教科書に掲載されていたのか分からないけれど、初めて読む内容である。
 現在は掲載されなくなってしまっているのなら、日本人を助けてくれた韓国人の伝記と共に、掲載されるべきだろう。
   《日韓関連・参照》   『日韓交流のさきがけ 浅川巧』 椙村彩 (揺籃社)
                  『日韓皇室秘話 李方子妃』 渡部みどり (読売新聞社)
                      【木浦の共生園:日韓の架け橋に】

 

 

<了>

 

 

   《参照》   道徳をタイトルに含む書籍の読書記録