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 日韓の政略結婚に巻き込まれた韓国王家の李垠(イ・ウン)と日本皇室の梨本宮方子(まさこ)の人生が、生涯を通して記述されている。


【李垠、留学という名目で来日】
 系図によると、李垠は李朝26代の高宗皇帝の三男である。
 夫となった李垠殿下は、1907年(明治41年)、11歳の時、伊藤博文により留学という名目で日本に連れて来られた。皇族としての待遇は受けていたものの、体のいい人質であった。伊藤博文は、垠殿下の教育係りでもあり、初代の韓国統監でもあった。 (p.24)
 この2年後、1909年、伊藤博文が旧満州のハルビン駅で韓国人青年安重根に射殺され、この事件をきっかけに、翌年の1910年、日本は日韓併合条約を一方的に強行して成立させたという経緯が続く。
 日韓関係史の中で最悪の時期が、二人を出会わせるプロローグになっていたのである。

 

 

【自分の結婚を新聞で知った方子】
 実のところ、方子女王は、皇太子裕仁親王の有力なお妃候補として、ほとんど本命視されていたのである。・・(中略)・・。期待に反して、大正天皇は方子女王を李王世子垠殿下に嫁がせよと(梨本宮守正王に)命じられたのである。・・(中略)・・。
 実は、方子の結婚は日本の軍閥が決定したのだった。軍閥同士の派閥争いが皇太子妃の選抜にも影響したのである。・・(中略)・・不妊症(?)の方子女王を垠殿下に嫁がせ、李王家を絶えさせる日本軍閥の目論見があった。後に李王妃となった方子が男の子を生み、不妊を主張した侍医3人は処罰され解任されたという。 (p.21-22)
 本人である方子を蚊帳の外において、このように政略結婚は進められていた。
 予定されていた婚儀の4日前に、李垠の父、高宗皇帝がなくなり延期され、実際に婚儀が行われたのは、1920年である。二人の結婚生活は、日本国内で営まれていた。

 

 

【乙未事変(京城事件)首謀者との不気味な因縁】
 乙未事変(京城事件)は、高宗の妃である閔妃が当時親露政策を採り、日本を牽制しようとしたため、三浦梧楼公使が指揮して王宮に乱入、放火し、閔妃や女官たちを殺害した野蛮な事件である。 (p.48)
 実は、この邸(正子が生まれた家)は、閔妃暗殺の首謀者三浦梧楼が建て、それを当時の宮内省が買い取ったのだ。三浦梧楼といえば、長州出身、軍人で俗に伊藤博文の一の子分と言われ、井上馨の推薦で駐韓公使となった人物である。 (p.47-48)
 閔妃暗殺の張本人、三浦梧楼の旧居で生まれた、方子女王が、やがて韓国皇太子垠殿下と結婚する運命の不思議、その因縁は名状しがたい不気味なものであった。 (p.51)
 名状しがたい不気味な因縁と書かれているが、朝鮮半島へのロシアの介入を防ぐという目的での三浦梧楼の行為は、今日の韓国の存立に繋がっている。朝鮮がロシアを招き入れていれば、朝鮮半島全域が今日の北朝鮮になっていたのは明白である。日本軍部の謀略とする反日だけの視点とは別に、日本―朝鮮半島―ロシアの全てを含んだ視点で考えることがより相応しい歴史の見方である。
 ロシアの危機から日本を守ろうとするとき、長州人脈が働くのである。三浦梧楼しかり安倍普三前総理もであった。日本国民は何も起こっていないから自覚はないであろうが、安倍前総理はその意味で神意に沿う総理だったそうである。

 

 

【父李王の安心】
 垠殿下の亡き父李太王は、日韓の縁組を大変に喜ばれていた。その理由は、朝鮮の宮廷には王妃の一族による政権を巡っての絶え間ない勢力争いの歴史があり、日本皇族の女王殿下と日本で勉強した垠殿下が結婚すれば、李朝は平和になるだろう、と安心されたからだという。 (p.84-85)
 この見解が李太王の本心を伝えているとは思えないが、そうであるならば、激動へと通じる時代の波濤を感じていないかなりノー天気な見解としか思えない。

 

 

【生後8ヶ月の晋を暗殺した首謀者は?】
 李垠殿下と方子妃の間に生まれた晋が生後8ヶ月の時、3人揃って韓国を訪問したのであるが、晋はそこで牛乳を飲んだことが原因で死んでしまう。
 母梨本宮伊都子妃は著書 『三代の天皇と私』 の中で、「方子が結婚するについて李王朝に関する資料を読んだ時、この毒殺が恐ろしかったのです。・・(中略)・・。それを何とか防ぐ方法はなかったものだろうか。侍女から乳母まで日本人を連れて行って用心はしていたであろうに・・・」 (p.106-107)
 李王朝の純血に日本人の血が入ることを拒む毒殺ではないか、という韓国側犯行説が一般的推測なのであろうが、不妊症と診断されていた方子妃をあてがっていた日本軍閥側犯行説だって、十分推測できる。
 しかし、『古事記』 には桓武天皇の妃は百済から来たことが明記されているほどなので、韓国側犯行説が正しいのであれば、それは日本人からみるとかなり狂激な行動であるように思える。しかし、韓国の血族に関する意識は、昔も今も日本よりはるかに頑強であることに間違いはない。

 

 

【社会情勢に翻弄されて】
 1923年の関東大震災の2日前には、天皇爆殺を計画した朴烈が逮捕された。テレビもラジオも普及していなかった当時、関東大震災では、流言飛語の中、朝鮮人代虐殺という悲劇が起こり、政府は戒厳令を敷いた。1924年には、拳銃1丁と手榴弾3個をもって宮城に入ろうとした朝鮮独立運動の秘密結社による二重橋事件が起こっていた。
 新婚間もない当時の夫妻にとって、息もできないような日本の生活から逃れたいと思うのは無理もないことであった。夫妻が1927年に、非公式ながらヨーロッパ外遊の途に出た時のことである。
 当時、上海臨時政府が垠殿下を拉致し亡命させるという計画を持っていた。上海の臨時政府には後の大統領李承晩博士や警務部長の金九など反日運動の闘士が集まっていた。・・(中略)・・。朝鮮人スパイの密告で英親王(垠)拉致の計画は未遂に終わった。 (p.128-129)
 フランス滞在中は、軍縮会議の日本代表でジュネーブ滞在中であった斎藤実朝鮮総督が夫妻の世話をしてくれた。第三代朝鮮総督の斎藤は海軍大将の子爵であった。彼は見聞も広く、李王家には特に関心を示し、文化政策を行った人物であった。斎藤総督はフランス政府に対し、レジアン・ド・ヌール勲章を垠殿下に贈るよう手配してくれた。これは日本の皇族と差別がないようにとの斎藤の特別な配慮であった。 (p.131)
 朝鮮統治に関して、武断統治から宥和政策へと切り替えてゆき、それを定着させたのが斎藤実・第三代朝鮮総督ということなのであろう。

 

 

【徳恵姫の結婚】
 垠殿下の妹である徳恵姫も、1931年に政略結婚が強行された。
 結婚式の日、か細い体にウエディングドレスを纏った徳恵姫の姿を見た方子妃は涙を拭った。 (p.140)

 

 

【戦後の夫妻の生活】
 終戦前までは、皇室の誰もが李王家を礼儀正しくはあったが冷たく扱っていた。それは李王家の天皇家に次ぐ歳費、・・(中略)・・。終戦直後の内閣総理大臣の年俸がおよそ1万円。皇族費では・・(中略)・・。梨本宮家は3万8千円。李王家120万円であった。 (p.169)
 この歳費にも、軍閥の思惑が十分に感じ取れる。しかし、これは、終戦前までのことである。敗戦によって、日本の支配者が変わってしまった。
 マッカーサー司令部から「皇室の財産税を収めるように」との通達があり、財産税は70%から80%という高額なものであった。・・(中略)・・。李垠と方子の夫婦は、裏にあった召使の家に引っ越して生活していた。 (p.175)
 しかも、皇室籍を離れることになり、
 方子と李垠も在日韓国人ということで、日本政府との係わりも完全に断ち切られた。竹の子生活、売り食いの生活が始まった。 (p.179)
 この頃の夫妻の楽しみは、長男、晋の暗殺から10年ほどして生まれた玖が留学先のアメリカから送ってくるエアメールを読むことくらいだったのだという。李玖や夫妻の渡米のためのパスポート発行に関して、韓国政府は一切要求には応じず、日本政府が特例措置としてこの要求を実現していたのだという。
 借金生活に陥っていた夫妻に、光が差したのは、1961年に朴正熙議長が来日した時だった。朴議長はこのように言ったのだという。
 「韓国政府がすべき当然のことです。どうか安らかな気持ちでご帰国ください。国籍問題も経済問題も全て解決していますよ。」
 運命というものは分からないものである。全州李氏を名乗り、李王家の親戚に当たる李承晩大統領は、垠と方子を冷遇し続けた。そして、李王朝とは親戚でも何でもない若い軍人の実力者が垠と方子に救いの手を差し伸べてくれたのだ。 (p.212)
 李承晩は日帝の利権をすべて奪取した米帝の走狗となっていたのだから、この状態で血族云々の価値関係など無意味だろう。
 とにもかくにも、朴正熙大統領となった1962年に、戦後初めての方子の帰国が実現したのであるが、李垠はこの時すでに、脳軟化症にかかっており、それすらも分からない状態であったのだという。病状不安定な李垠が帰国したのは1964年であり、1970年に亡くなっている。

 

 

【方子妃の慈善活動】
 李垠殿下が亡くなってから、方子妃は、ひたすら障害者救済のために行動してゆく。
 1967年、障害を持つ子どものために明暉園を設立。
 1971年、ソウル市内に自活院明恵会館を設立。 
 1972年、水原市に慈恵学校を設立。
 1978年、光明市により高度な技術教育を受けられる明恵会館を設立。 (p.236)
 福祉意識の低かった韓国でこのような活動を行うために、自ら工芸品を作って販売したり、日韓の間を何度も往復して、資金を集め、日本から車椅子を持ち帰ったりしていたのだという。
 また、日韓の国交が正常化され、日本からの観光客が方子の事業のために寄付を申し出てくれたことも少なからずあったという。
 方子妃が筆者にこう言われたことを記憶している。
 「私の祖国は二つあります。1つは生まれ育った国、そしてもう1つは私が骨を埋める国です」
 方子妃は韓国に溶け込もうと努力されたし、夫の意思を継いで不幸な子供たちのために社会福祉事業に貢献されたことは、評価された。韓国の新聞は、
 「自らの不幸な人生を社会活動への献身で美しい人生に変えた」
 と報じている。日本慈行会会長岡崎綾子さんは、
 「日本と韓国を結ぶ本当の礎になろうと、日本を発つ時日本のお召し物を全部妹様にお預けになったことが印象に残っています。その後も、日本のお着物は一度もお召しになりませんでした。韓国の身体障害者のためによく尽くされ、韓国政府から国費で援助してもらえるようになった時には本当にお喜びになっていらっしゃいましたね。」 (p.250-251)

 

 

【韓国に眠る李方子妃】
 1989年、方子妃は87歳でなくなられた。
 5月8日、方子妃の葬儀は、準国葬並に行われた。韓国政府はこの葬儀のため、1億ウォン(約2千万円)を出して支援した。 (p.249)
 正子妃は李垠殿下と共に金谷陵で眠っている。
 
<了>