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 「頭脳大国への道」 と書かれている副題の方が気になって手にしてみたのであるけれど、タイトル通り、19世紀以降で世界的に活躍しているインド人の科学者が紹介されている。2009年10月初版。
 インドの地名は、植民地時代と現在では違っている。カルカッタ、ボンベイ、マドラスの現在の呼称は、コルカタ、ムンバイ、チェンナイである。インドに関する書籍を読むときは、このことを念頭に置いておいた方がいい。

 

 

【化学と化学工業の父・プラプッラ・チャンドラ・ラーイ】
 1861~1944
 ラーイは、ドイツの科学者リービッヒの 「一国の文化水準は石鹸の消費高によって、工業水準は硫酸の生産高によって測られる」 という言葉を引用しているが、彼は文字通りこれを実践に移し、インド人によるものとして初めての化学企業となったベンガル化学薬品会社を設立した。ラーイが陣頭指揮をとり、私財を投じて1901年に設立したものである。(p.12-13) 
 このような無私の精神は、生涯に渡って一貫していた。
 ラーイは終生独身で過ごし、質素な生活を貫いた。彼の肖像は数多くあるが、いずれも伝統的な服装をまとった姿である。カーイはカルカッタ大学時代を通して、給与のうち、自分のためには最低限の生活を支える100ルピーのみを受け取り、残りの400ルピーを政経の支援が必要な学生に与えたという。このほかにも、大学の実験設備の整備やベンガル化学医薬品会社への出資金などに随時私財を投じた。60歳で定年になったとき、異例にも彼は大学に残って後進の指導に当たって欲しいとの要請を受けたが、彼は大学から支払われる給与を学生に与えることを条件として定年以降の勤務を引き受けたという。(p.16)
 頭のいい人ならいっぱいいる。そんな人が何人も紹介されているから、このような記述の方が心に残る。

 

 

【精神の自由を拘束する心の内なるタブー】
 1054年7月に地球上で観測できた超新星(かに座星雲)の爆発について、日本や中国には、その目撃文献があるのに、ヨーロッパやインドにはないのだという。
 伝承された知識、宗教上の教義と矛盾するような経験を、意味あるものとして受け止め、書き留めるという精神の自由が、中世のヨーロッパにもインドにも欠如していたのである。(p.31)
 海外渡航によって身が穢れるという、ラマヌジャンの母を苦しめた宗教上のタブーもこの一例である。鎖国下に日本では幕府の禁令によって海外渡航が禁止されていたが、インドでは心の内なる規律として海外渡航を思いとどまる抑制が働いていた。そして、こうした心の内なるタブーが解き放たれたところに、そして解き放たれた心の持ち主によってインドの科学の発展が始まったと言えるのではないか。(p.32)
 かりに宗教的ないし社会的タブーがなくとも、人はそれぞれに固定観念や内的な意識の定型枠を持っている。 “精神の自由” という言葉は、それら全てを含むさまざまな枷からの超脱を希求する精神のことである。青年期に、書物の森に入りこんでしまった人々の幾人かは、おそらくこの言葉に囚われつつ思い入れしてしまった人々なのだろう。
   《参照》   『海馬 脳はつかれない』 糸井重里・池谷裕二 (朝日出版社)
            【いかに「思い込み」をまぬがれるかがポイント】
   《参照》   『今を深く生きるために』 中野孝次 海竜社
             【精神の自由】

 

 

【天才数学者 ラマヌジャン】
 ラマヌジャンの頭脳から新しい定理や公式があふれ出る様子は神秘に包まれており、本人ですら 「夢の中でナーマギリ女神が教えてくれた」 と説明するしかなかった。(p.17)
 名前だけ良く聞く天才数学者のラマヌジャン。天才とは、高位の次元界からの情報を受け取ることでできる人のことである。瞬間的に極点が分かってしまい、後々それを説明する論理を組み立てるのである。
 多量な書物を読み、分別智的な能力によって理解し、それに基づいて思索を積み重ねるような人のことなど天才とは言わない。

 

 

【バンガロールの発展】
 学術研究のメッカとしてのバンガロールの発展は20世紀の初頭、この地に研究型大学院大学であるインド理科大学が設立されたことから始まる。この新しい構想の大学はタタ財閥の創業者であるジャムシェードジー・ヌッセルワンジ・タタ(1839-1904)のリーダシップのもとで ・・・(中略)・・・ 彼が私財を投じて1911年に設立したものである。(p.47)
 今や、世界で最大規模の鉄鋼財閥となっているタタ財閥。その後も、多くの富がインドの発展のために還元されてきたはずである。

 

 

【日印共同研究】
 ウーティー電波天文台は日本との共同研究によりミューオンの観測なども行っている。タタ基礎研究所と日本との協力関係は1950年代にマサチューセッツ工科大学で同じ研究室に属していた日印二人の研究者、故小田稔先生とシュリカンタン博士の間に生まれた協力関係に端を発し、X線、ガンマ線やミューオン等の宇宙線研究を中心に継続されてきた。(p.66)

 

 

【海外に居住するインド人】
 国際労働機関(ILO)の推計によれば、海外に居住するインド人の総人口は2000万人、その合計所得は4000億ドルに達している。インドのGDPの80%に相当する金額である。居住国別に見ると、上位5カ国は、米国、マレーシア、サウジアラビア、イギリス、南アフリカとなっており、いずれも100万人を超える。 (p.78)
 南アフリカが第5位というのは意外である。
 おそらくダイヤモンド・ビジネスに係わってのことなのだろう。

 

 

【アジア生まれのノーベル賞受賞者】
 86頁に、1901年から2008年の間に(平和賞以外で)受賞した方の一覧が掲載されている。
 それによると、インド人5人、中国人5人、台湾人1人、パキスタン人1人、日本人15人 となっている。そのうち、受賞時に自国の国籍を持っていた人は、インド人2人、日本人12人、他は全て米国などの外国籍である。
 国内で研究に従事していた日本人科学者たちの受賞数からいっても、日本の若者達は日本の国内研究者のレベルの高さをもっと誇りに思ってもいいだろう。
 ところで、IT業界で冴えた知性をいかんなく発揮しているインド人に接したことのある私は、インド人の受賞者はもっとずっと多いと思っていたから、この数字はちょっと意外である。

 

《追記》
 このブログを張り付けた3日後の10月6日、
 2010年度のノーベル化学賞に日本人のお2方が加わりました。
 根岸栄一氏 と 鈴木章―氏 です。
 これで、日本人で平和賞以外のノーベル賞受賞者は、17人です。 
 素晴らしい! というか、日本人として誇らしい!

 

【詠唱の伝統】
 インドの科学者たちの多くが若い時代から詠唱という方法でまとまった文章を記憶する訓練を重ねていることである。詠唱されるのは 「ラーマーヤナ」 「マハーバーラタ」 といった叙事詩ばかりではない。(p.105)
 ユネスコは、インドで行われている一連の詠唱方法を2003年に 「ヴェーダ詠唱の伝統」 として世界無形遺産に指定したという。
 振り返れば、日本でも論語の素読をはじめ、古典や詩文の詠唱の伝統はあったし、学者も、それを教養の一部としていた時代はあった。が、現代ではこうした伝統はほとんど失われている。記憶すること、声に出して読むことの重要性について、あらためて見直すことの必要性を感じた。(p.107)
 素読は、右脳教育法の基本なのだから、これは見直されるべき。
            【右脳教育法】
 インド人にとってのヴェーダ、ユダヤ人にとってのカバラ、アラブ人にとってのコーランに相当するのは、日本人にとって神道の祝詞だったはずである。詠唱は呼吸法とも絡んで、脳に深い影響を与える。
   《参照》   『奇跡の習慣』 ソンドラ・レイ (ビジネス社)
             【効果的な祈りの秘密】

 

 

【論理性に秀でたサンスクリット語】
 「ギリシャ語より完全であり、ラテン語よりも豊富であり、しかもそのいずれにも増して精巧である」(風間喜代三 『言語学の誕生』 )と述べているように、サンスクリットは論理を表現する能力において強力な道具である。(p.107)
 この記述に次いで、著者がサンスクリット語について実感したことが記述されている。
 言葉というのは民族の知性と深い関連性を持っている。
 日本人は日本語という類まれな言霊によって霊化されているのだけれど、そのメリットを余り自覚していない。
   《参照》   『2001年 世界大終末』 渡部勇王 (廣済堂)
            【父性言語 vs 母性言語】
            【 星の文明 vs 月の文明 vs 太陽の文明 】

 

 

【筋道を立てる力と高度な計算力】

 数学教育の専門家である芳沢光雄氏は、インド人は掛け算などの計算が得意だから世界に冠たるIT大国になった、という一般に流布されている見方が完全に誤りであることを指摘し、証明問題などに要求される筋道を立てる力こそがインドのITの発展に深く関わっていると述べている(読売新聞 「論点」、2007年6月20日)。筆者もこの見方に全く同感であるが、同時に、計算基礎力という点でも、インドの教育水準が極めて高いことは強調しておかなくてはならないと思う。ただし、それは単に掛け算の九九のレベルの話ではなく、微積分はもとより、電磁気学、力学、化学反応論など、物理学、化学も含めた高度な計算のレベルの話である。(p.111)
 言語特性に依拠して、日本人よりインド人の方が論理的思考力は高くなるのは当然である。しかしながら脳の特性や優秀さは、論理力によって定まるものではない。総合力としては、日本語と日本文化によって涵養された脳の方が、レベルは上なのである。
   《参照》   『本当の愛とはなにか?』 深見東州 (たちばな出版)
            【智恵証覚に秀でた日本人】

 日本人は日本語を大切にしてさえいれば、基礎が揺らぐことはない。

 

 

<了>