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 タイトルの純神道とは、稲作農耕の始まった時期の弥生神道ではなく、狩猟採集時代の縄文神道であると書かれている。
 純神道である縄文神道自体はシンプルなものなので、とりたててどうこう言い得るようなものではないけれど、外来信仰との比較において、神道を浮き彫りにする前半の記述は、頭を整理するのに役立つ。
 最後に書かれていた、 “サ神” と “桜” に関する記述が白眉かも。

 

 

【外来信仰と神道】

 まず、最低限の基礎知識として、以下に示す解釈をインプットしてください(旧帝大教授で文学博士・久米邦武氏の講述 『日本古代史と神道との関係』 の原文から)。
一、 神道は神に祈祷し祭りをする。
一、 儒教は天道に順うて政治をする。
一、 陰陽道は現世の凶禍を呪(のろ)い、除(の)くる。
一、 仏教は、善根(ぜごん)を収めて前世の業因を果たして後世の福を迎へる。
 久米邦武は、これら4つは1つにならないで各自区別されていたが、永き年代の間に、それが入り乱れてしまって、今日これを研究するには、言うべからざる困難があると述べています。 (p.27-28)

 

 

【道教と神道】

 道教は一口に言って、老子の道徳思想とは違い、中国古代の宗教思想と民間習俗が混ざってできたもので、これに天文・医術・陰陽説・神仙思想・方術(呪術)などを加えたものとされます。(p.44-45)
 神社で売られているお札や、お守り(交通安全・・・(中略)・・・)は、道教の 「霊符・護符」 からきたもので、現世利益をメインにした呪術的な産物です。
 また、山岳地に定着している修験道には、道教の 『抱朴子』 内編20巻に解かれている神仙思想が深く取り込まれて、九字の呪文(悪霊を切るための)や煉丹術、調息の術、護符などのマニュアルを、そのまま実践していることから、日本版道教の縮図といっても過言ではありません。おまけに、修験道には真言密教の加持祈祷まで入っていますから、修験者を教主とする全国山間地の神社の大半は、神道とはかけ離れた信仰によって、ますます道教色が強くなってきました。
 ・・・(中略)・・・さらに、大嘗祭をはじめとする皇室で執り行われる祭祀形態の中には、まるごと道教のマニュアルを取り入れたものがあり、それらは秘儀に一部として残っているため、普段は一般人にはわかりません。(p.46-47)
 中国において、既に道教は陰陽道と深く混ざり合っていたから、日本において、このようなことになってしまった。
   《参照》   『道教と日本文化』  神道国際学会編  (たちばな出版)

神道と道教の基本的な共通点は、仏教のように生を否定的に捉えるのではなく、肯定的に捉える考え方である。

 

 

【純国産神道】
 要するに、かけがえのない国産神道を、闇の中から掘り出して新たに組み立てなおすには、天津神系神道(稲作優位神道=弥生式神道)を一部リストラし、重油のように付着した道教・儒教・仏教などの非国産信仰を排除しなければ、日本という国に明るい未来はないし、日本人も欧米文化一辺倒の腑抜けの民族になってしまうということです。(p.66)
 本物に出会う最初の一歩は、日本の原郷を探り、身近な自然摂理に目をむけることです。(p.69)

 

 

【純神道の神】

 目に触れる自然界のすべての仕組みを統率している力(摂理)が神です。・・・(中略)・・・私たちに不可欠の恵みを与えてくれる自然界のすべては、神の意思(想念の極致、それを超越した心)によって人類のために物質化されたものであると断言できるのです。こうした視点から神を提示する宗教観は本書がはじめてで、 『記・紀』 やキリスト教の 『聖書』 にはありません。(p74-75)
 神道系の宗教団体が提示している神の概念もこのようなものであろう。自然界にあるそれぞれの力(働き)に対して、『記・紀』 の中にある神名を当て嵌めて用いているけれど、決して人格神のような扱い方はしていない。
 著者は終局的に、縄文神道はアミニズム信仰であると書いているけれど、アミニズムと言ってしまうと、かえって偏狭な定義になってしまうように思えて仕方がない。

 

 

【感謝の気持ち】
 純神道(縄文古神道)の実践には既製古神道のような、呪術とか呪文、祈祷、霊符をベースとした怪しげなご利益の行いがないことが分かりました。また、不浄を祓う、清めるといった人間が勝手に作った観念もなく、なによりも感謝の気持ちを、生活の中で素直に意思表示することを基本としています。(p.180-181)

 

 

【サ神】
 「サ神」 は、慶大名誉教授・西岡秀雄氏が昭和25年にはじめて発表し、後に 『酒と桜の民族』(昭和56年刊・現在絶版で入手不可能) という著作にも登場した神の名称として有名です。(p.236)
 「サ神」 は、すべての宗教宗派を超越した日本固有の神で、その源流は山と森の民・縄文人にたどりつくものと考えられています。・・・(中略)・・・
 さて、サ神さまの本来の姿は 「山の神」 とされ、毎年春になると里に降りてきて 「田の神(農耕の神)」 に変身し、秋になるとまた山に帰って元の山の神さまになる。(p.237)

 現在、ほとんどの桜は里桜(主にソメイヨシノ)ですが、日本桜の源流は山桜であり、サ神のクラ(座)がサクラの語源になったものと考えられています。(p.239)
 これを読んだ日本人なら、本居宣長の歌を想起することだろう。
 「 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花 」
 桜と日本人には、間違いなく見えざる強いつながりがある。

 

 

【桜に熱狂する日本人】
 昭和50年のはじめ、映画監督の篠田正浩氏は、桜について次のように書いています。
 「日本の芸能である能や歌舞伎で扱われる変化物や物狂いの場面には、いつも、桜の花が降りしきるのである。娘道成寺の花子や義経千本桜は勿論のこと、鶴屋南北の桜姫にいたるまで、桜の花が散る時、その空間は、日本人の魂をゆすぶり狂わせるのである。
 その桜に熱狂する日本人は、決して、バラやチューリップを眺めて死を発見することはあるまい。・・・(中略)・・・。この、日本人には一種不可抗力な霊性を与えてしまう桜の異様さについて、坂口安吾の 『桜の森の満開の下』 ほど見事に表現された作品を、外に私は知らない。(p.243)
 歌舞伎の演目 『金閣寺』 も桜花舞う中でクライマックスが演じられる。
      《参照》  『歌舞伎と日本舞踊』 高橋啓之 (サンリオ)

               【爪先鼠】

 

 

【サ音の秘め事】
 実はサ音そのものは紛れもなく神聖な音節であり、それは 「サ」 をさらに分解して 「ス・ア」 になることで明らかになります。
 まず 「ア」 の言霊、これは五十音の最初の音節であり。アルファベットのAでもあります。アは宇宙無限力における初発の言霊で、天のアマ、海のアマで示されるように、広大無辺なるものの象徴の頭にアの字がつきます(遍く=祝詞参照)。また、「ス」 は主神、主役、主人のシュ、神具の鈴のスであり、ア音と合体してス・ア、すなわち 「サ音」 になります。ということで、サの神にはスとアの二つの言霊が隠されていたわけですから、桜の花を超越した森羅万象の神にもつながるわけです。(p.244)
 日本語の母音は “アイウエオ” の5音で、それ以外は子音とされるのが通常の国語の説明であるけれど、言霊の解釈では、母音5つの他に、 “クスツヌフムユルウ” の9音を父音とし、それ以外を母音と父音の組み合わせで生ずる子音と考える。五十音表の、右側の縦一列が母音であり、真ん中の横一列が父音である。
 

 

<了>