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 シンポジウムの内容が収録された書籍。

 

 

【道教のかかわる分野】
 河野訓先生の講演から
 風水が儒教に影響する場合もあれば、風水が道教に影響する場合もあると思います。風水を道教とみるとちょっとずれるのではないかと私は思います。 ・・・(中略)・・・ 。今あげましたような、皇帝祭祀とか四神、風水を除き、道教のかかわる分野は、前述の服餌、調息、導引を行って不老長生を図ること、それから、占いなどによって除災招福をすることが主です。土地を占うことは道教に初めからあったものではありません。道教が成立する前に 「堪與」 として行われていたことです。(p.54)

 

 

【吉田神道】
 河野訓先生の講演から
 吉田神道の開祖、吉田兼倶(卜部兼倶・1435~1511)自身は、「三教(儒教・仏教・道教)の一滴も含まず」 と書いていますが、実際は、この資料の上段の吉田神道の霊符と下の 『太上玄霊北斗本命延生真経註』 の護符を比較していただければおわかりのとおり、ほとんど道教をそっくり使っていることがわかります。
 西田長男先生も、「教えの面でも行法の面でも、吉田神道は道教の借り物である」 といい、また、「吉田神道から道教的要素を除けば何が残るだろうか」。「吉田神道は道教の換骨奪胎である」 ともおしゃっています。(p.66)
 であったとしても、「北辰の使い方を知っていたのは、道教だけ」 ということにはならない。
   《参照》   『姜尚中対談集 それぞれの韓国そして朝鮮』 (角川学芸出版)
            【伊勢神宮は起源を隠している?】
   《参照》   『必ず奇跡の起きる経営 深見所長講演録11』 (菱研)
            【ユダヤ教と伊勢神宮】

 

 

【日本にある道教の廟】
 河野訓先生の講演から
 船が久米島の近くで遭難した時、助かった人々はここに上陸して媽祖を祀ったと伝えられています。そういうわけで、久米島には道教の神様の廟があります。これは道教の神社仏閣への影響とは関係ありませんが、日本にある道教の廟ですので、一応紹介しておきます。(p.74)
 媽祖廟とは言わず、媽祖(まそ)の称号である天妃(てんぴ)を用いて、天妃廟と言われている。

 

 

【道教と陰陽道】
 林淳先生の講演から
 道教はなんとなく陰陽道に近いというイメージから、今回、私を呼んでくださったのだと思いますが、私からすると、道教と陰陽道はそんなに近くはないのです。(p.95)
 結局、陰陽道とは何かと考えますと、日本人の目から見て、どこかしら中国風なんですよね。儀式の仕方とか、祀っている神様、泰山府君とかが、何かしら中国風に見える、そういう、メイド・イン・ジャパンの呪術なり、宗教なり、祭祀というものではなかったと思うわけです。
 よく考えると、日本の多くの宗教が似ているのではないかという気がします。日本の仏教でも、親鸞や日蓮は、どう考えてもメイド・イン・ジャパンの仏教だろうと思います。日本のキリスト教の内村鑑三の 「無教会主義」、これもどう考えても、メイド・イン・ジャパンのキリスト教でしょう。
 外から来た文化ですけれども、外の文化そのものではなく、メイド・イン・ジャパン化する。その一つの例として、陰陽道もあるのではないでしょうか。ですから、道教との比較はなかなかできないというのが、私の結論でございます。(p.113-114)

 

 

【道教は日本の宗教に大きな影響を及ぼしていない】
 アラン・グラパール先生の講演
 道観がなければ道教はないです。日本には道観は一つもないと思います。それから、太平道とか天師道(五斗米道の改称)のような活動が日本には一つもありません。だから、日本に道教があったと言っては誤りですね。道教の言葉、あるいは道教の神々は、少数とはいえ、あったに違いないですが、それだからといって、日本の宗教に道教が大きな影響を及ぼしているとまでは言えないと思います。そういう意味では、今日のご発表は皆合っています。(p.163)

 

 

【要素ではなく、組み合わせに着目する】
 園田稔先生のまとめ講演
 縄文、弥生の時代からすでに、大陸との文化交流があったわけですから、コアとして日本にしかないものを、そんなに期待しないほうがいいと私は思っています。
 それよりも問題は、そういう要素主義です。エレメンタリズムで一つの宗教を切っても意味ないのです。そんなことを言ったら、キリスト教もルーツを辿れば、いろいろな要素でバラバラになるわけですから。仏教もそうです。儒教もある意味ではそうだろうと思います。
 ですから、要素で割った結果何も無いから無いと考えるのではなくて、むしろ、そうしたものを組み合わせて、日本の歴史、風土の中で日本的な形になっている、そこにアイデンティティーを求めるのが、一つの緩やかでオープンな態度だろうと私は思うのです。日本人が選択的に、適切なものは受け入れるけれども、そうでないものは排除するという形で、やはり日本の風土の中で育て上げた、一種のアレンジメントとしての体系と考えたほうがずっと気が楽です。(p.174)
 宗教もラッキョウの実。皮を剝いていったら何も残らない。産地と味がポイントということだろうか。
 であるにせよ、その味を定めるのが、日本という固有な土地のみにある波動なのであろう。繊細な味を醸し出す日本文化・日本神道の固有性は、この波動が定めているはず。
 
 
<了>