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 第三の目は、一般的には “眉間にある霊性の目” を意味するけれど、本書は、一つ目となってしまいやすい職業(鍛冶・製鉄)を辿って、忘れ去られた古代神(埋没神)に再び光をあてようとしている。
 一回通読しただけだけれど、しばらくして再読したら別の発見がありそうな書籍である。
 『隠れたる日本霊性史』 同様、著者の本は非常に興味深い。

 

 

【天目一箇命】
 アメノマヒトツ ―― 漢字で書くと 「天目一箇命(あるいは神)」 という神がいる。
 よほどの神様好き人でないと、その名も聞いたこともないかもしれない。なにしろ 『古事記』 にはその名は現われず、 『日本書紀』 の 「一書(あるふみ)」 の中の1か所に辛うじて出てくるだけの神なのだ。 ・・・(中略)・・・ 。
 「天目一箇神を作金者(かなだくみ)とす」
 として登場してくるだけなのである。その意味では、まことに埋没的な存在であり、マイナーな神といえるだろう。
 ここでいう作金者というのは、いわゆる鍛冶屋のことである。(p.12)
 製鉄にかかわる踏鞴師や鋳物師には、共通する職業病があった。高温の鉄を扱う故に炉の中を覗き込む過程で片目の視力を失うという病である。あるいは両眼であったかもしれない。
 視力を失った者は、なおのこと他の感覚器官が研ぎ澄まされ、非常に鋭敏な感性、さらには高度な霊性をもつに至ったらしいのである。

 

 

【霊力をもった神・天久斯麻比土都命】
 『新撰姓字録(しんせんしょうじろく)』 の 「山城国神別」 の 「天神」 の項に、
「菅田首(すがたおびと) 天久斯麻比土都命(あめのくしまひとつのみこと)の後(すえ)なり」
 と出てくる。「天」 は天つ神としての出自を表わし、「久斯」 は 「奇(くし)」 のことであり、奇霊(くしび)なる霊力を備えていることを意味する。もちろん、麻比土都はマヒトツと読み、「目一」 のことである。すなわち、天目一箇命のことである。(p.34)
 菅田は著者の名字でもある。菅の生い茂る植生の地は、鉄分を含んだ土地でもあることから、鉄を扱う職能集団が集う土地としての関係がある。
 また、神道系の知識のある方なら、菅田=スガタ=ス形 と即座に解釈できるから、より一層推測しやすいことだろう。

 

 

【鍛冶の2系統】
 『播磨国風土記』 は、極論すれば、但馬国出石郡を拠点とする渡来系の天日槍(あめのひぼこ)が率いる韓鍛冶集団と、先住系の石作り=倭鍛冶の人々との間で、鉱山の領有をめぐって繰り広げられた闘争という側面をもっているが、 ・・・(中略)・・・ (p.104)
 鍛冶を行う職業部としての鍛部には、倭鍛部と韓鍛部の2系統があったという。おそらくその違いは神別と蕃別(出自が外国)という違いによるものと思われるが、技術的には倭鍛冶は鍛造するときの床が堅い石なのに対し、韓鍛冶は金床(金属の板)を使用したという違いのようだ。(p.84)
 『古事記』 には 「天の安の河の河上の天の堅石」 とある。

 

 

【天目一箇命を祭る神社】
 神社の分布という点からいうと、3つの地域に集中していたことがわかる。大和国(添下郡)、近江国(蒲生郡、野洲郡)、播磨国(佐用郡、多可郡、賀茂郡)である。(p.96)
 記紀神話からいえば、「天の安の河」 が琵琶湖に注ぐ野洲川であるとすると、その 「河上の天の堅石」 をとった場所は、まさに三上山の周辺ということになる。その麓に鎮座する御上神社の祭神である天之御影神の別名は天目一箇命であり、天之御影神は彦根地方とは深い縁があったと思われる。天津彦根命の御子神である。(p.97)

 

 

【琵琶湖】
 琵琶湖西岸の比叡・比良山系には、鉄精錬の野タタラが数多く発見されており、製鉄・鍛冶も盛んだったと想像できる。要するに、琵琶湖の周辺、すなわち近江国は大袈裟にいえば古代鍛冶帝国の様相を呈していたということができる。その中の有力支族が伊勢方面へ向かい、桑名で一目連(いちもくれん)神社を創祀し、おそらく伊勢国の忌部の祖になったのである。(p.98)
 「天の安河」 である琵琶湖が、古代の鍛冶産業の集積地であったという事実は、琵琶湖が、まさに古代史の中心軸となる地域であったといえるのだろう。

 

 

【火水=神 と 第三の目】
 古神道的な言霊理論では火(カ)と水(ミ)で神(カミ)である。 ・・・(中略)・・・ 。だが、火と水でカミになる、ということを最初に感じた人たちは、おそらく鍛冶屋達であったと思うのだ。 ・・・(中略)・・・ 。鍛冶師が火と水を駆使して刀剣などを作っていくとき、火花が飛び散る様子を見て、自然現象としての雷の発生の類似性を想起したかもしれない。雷とは火の気と水の気が出会ったとき、神が 〈鳴〉 り 〈生〉 り 〈成〉ることから生じた言葉だが、刀剣は神の依代(御霊代)として使われる。いや、鏡作り系の鋳物師が作る鏡も神の依代である。まさに、火と水の霊的弁証法の、工業技術への適用がカミ(火水=神)ナリ(成り)としての製品だ。(p.138-139)
 まさに。
 しかし、今日のような防護器具とてない古代の鍛冶師の多くは、タタラのホド穴を見つづけて失明の危機に晒されていたのである。
 火を視つづけたことで目を失ったのだから、その 〈目〉 はなおも 〈火〉 を見つづけようとし、今度は 〈霊(ひ)〉 を観ようとするにちがいない。このとき火と水の霊的弁証法が作用する。片目を失ったとき、おそらくマヒトツは 〈漠たる大きなものの中で、今なお燃えている火〉 を観、さらにその 〈火の中心部にあるス〉 を観たのではあるまいか。
 この場合の 〈ス〉 とは、大根などのス(鬆) ではなく、火の中の、あるいは霊の中の 〈ス〉 である。宇宙の中の極微なる穴としての 〈ス〉 である。
  ・・・(中略)・・・ 
 〈火〉 が 〈日(=太陽)〉 であり、さらに 〈霊〉 であることを認識したに違いない。このとき、マヒトツは肉眼では決して視えないものが観えるようになったはずである。(p.142-143)
 文学的な表現と思うかもしれないけれど、これは単なる空想による記述ではない。これを補う記述がある。
 〈1つ目〉 というのは、片目の視力を失って隻眼となることである。このとき、失われた片目は、視力を回復させようとするにちがいない。おそらく、松果体が失われた片目の働きをしようとする。もちろん、肉体的には視えないのは当然だ。しかし、霊的には観えてくるのである。 ・・・(中略)・・・ 松果体が働いて片目の代役をするはずである。視えないものが観えてくるはずである。天目一箇命という神名は、単なる 〈1つ目〉 の神ということではない。〈第三の目〉 が開眼して、視えない世界が視えるようになった、という意味での真眼・心眼・神眼を顕現した存在だ。(p.148)
 北欧神話の主宰神であるオーディンも隻眼である。