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 パワー不足を感じている昨今、1999年の古書ではあるけれど、ノビーの本を探して読んでみた。シャヒーンとかボビーといった名前が出てきて大そう懐かしい。なにせ、ノビーの本を貪るように読んでいたのは学生時代だったのだから。

 

 

【ワン・マン・カウンツ(One man counts.)】
 私が人生の師と仰ぐボビー(ロバート・ケネディー)が凶弾に倒れる間際まで、われわれに言いつづけていたことがある。
「勇気と信念に基づいた数限りない行動によって人類の歴史は形成されていく。ひとりの人間が理想のために立ちあがり、不正を攻撃し、苦しんでいる人々のために行動を起こすたびに、彼は希望のさざ波を送りだしている。百万人が行動を起こせば、それらのさざ波は勇気とエネルギーとなり、いかなる迫害、いかなる抵抗の壁をも突き破る津波となるのだ」
  ・・・(中略)・・・ 。
 ボビーはそう言いつづけ、その後にこう言うのを忘れなかった。
「古代ギリシャの政治家ペリクレスは言った。 “もしアテネが偉大と思うなら、その栄光は勇敢なる人々、義務を果たすことを知った人々によって勝ち取られたのである” と。それこそあらゆる社会のあらゆる偉大性の源であり、われわれの時代の進歩のカギとなるのだ」
 ワン・マン・カウンツ。たったひとりでも何かができる。
 21世紀を生きていく若者たちは、たとえ自分たちの世紀が絶望的に見えようとも、自分に課せられた義務を知り、それを勇気をもって果たしていかなければならない。それが、ボビーをはじめとする偉大な先人たちがかかげた松明を灯し続けることになるからだ。(p.21-22)
 世界の殆どの国々では、民主主義は日本のように移植的にその国に生じたわけではない。多くの血を流し漸くその国に根付き、そしてその後も、多くの暴力によって民衆の良心は絶望の淵に立たされてきたのである。アメリカにおいては、ボビーが凶弾に倒れた時こそが、まさにその時だった。

    《参照》   『それでもなお、人を愛しなさい』 ケント・M・キース 早川書房

                 【「逆説の10か条」 が書かれた頃のアメリカ】

           『ボビー』   アメリカ映画
 それから40年以上経過した現在でも、暴力をもって世界に君臨しようとする愚かな勢力が消えたわけではない。この本が書かれた1999年頃には、まだ独裁的な権力で圧政をおこなっている、チェウシェスク、ミロシェビッチ、フセイン、金正日 といった輩がいた。
 ノビーがこういった世界の実情報に接すれば、過去の実体験に照らして自らの気持ちを奮い立たせることができるのだろうけれど、今の私は、学生時代のような生々しさで感じられなくなってしまっている。現在は、インターネットを使えば、誰でも、世界で起きている忌まわしい出来事の情報をつかめるけれど、バーチャルなことのようにしか感じられない人々が多いのではないだろうか。
 世界の出来事を、痛く心で受け止めることができる感受性豊かな若者であるならば、行動するがいい。
 ワン・マン・カウンツ。
 人のために何ができるか考えない人間は、人生の喜びを味わえぬまま死んでいく豚にほかならない。(p.38)

 

 

【この世で一番悲しいのは・・・】
 バブルが崩壊した時、大部分の日本人がショボンとなった。自分たちの心のなかに、魂の幅を広げるだけの文化を持っていなかったからだ。
 イタリア人たちは違う。彼らもまたバブル崩壊でピンチに立たされたが、彼らには生きた文化がある。イタリアの友人がこんなことを言っていた。
「ローマのある寺院に、ミケランジェロの絵がある。何か困ったこととか、悲しいことがあると必ずそこへ行ってその絵を見るんだ。すると、あの大天才・ミケランジェロの声が聞こえてきて勇気づけられる」
 この世で一番悲しいのは、金だけしか持っていない人間がいることだ。持っているのは金だけで、文化も教養も知識もない。こういう人間は、金を失ったとたんどうしていいかわからなくなる。とっくに魂が枯れ果ててしまっている上に唯一の心の支えを失ってしまうからだ。
 これから21世紀に生きていく日本人たちに、そんな幅の狭い人間になってほしくはない。たとえ何億円もらっても、やはり百冊のシェークスピアとトインビーの方がはるかいいいと私は心底思う。なぜなら、百冊のシェークスピアとトインビーは、自分の世界を大きくしてくれるからだ。金にはそんな力はない。(p.52)

 

 

【黄金の翼に乗って】
 私の耳に19世紀イタリアの作曲家ジュゼッピ・ヴェルディの歌劇 『ナブッコ』 の歌曲が響いてくる。ユダヤ人たちは、はるか彼方の故郷を偲んでこう合唱する。
「行け、思いよ。黄金の翼に乗って」
 黄金の翼があれば、今すぐにでも故郷シオン(エルサレム)の地に戻ることができように。ユダヤ人たちは絶望のなかで狂おしいばかりに故郷へと思いを馳せる。
 ヴェルディがこの歌曲を作曲した19世紀半ば、イタリアは長年にわたった異国の支配下で、絶望的に祖国統一を夢見ていた。いったんはその夢を、イタリア統一を掲げたフランス皇帝ナポレオンに託したものの、この独裁者はただイタリアを自らの属領にしただけでしかなく、この独裁者が没落したあとも、オーストリアの支配に甘んじることになった。
 それでも、イタリア人は祖国統一の夢を決して諦めず、各地でイタリア祖国統一運動(リソルジメント)が湧き上がっていた。ヴェルディの歌劇 『ナブッコ』 はその統一運動のまっただなかで上演されたのだった。
 公演は大成功だった。ユダヤ人が故国を偲んだ 「行け、思いよ、黄金の翼に乗って」 が合唱されはじめると、イタリア人の祖国統一の思いは、祖国を奪われたユダヤの民の嘆きと怒りにそのまま重なり、客席の昂奮は最高潮に達した。(p.118-119)
 この書籍の第1章の前に、旧約聖書の詩編の冒頭の言葉が書かれていた理由が、ここを読んで分かったのだけれど、ノビーはシオニストなのではない。ノビーは国を失ったユダヤ人のように、日本が “既に滅んでしまった国“ であるかのような想いでこの文章を書いているのである。ノビーはそれほどに、日本を深く憂えている。
 21世紀へ向かう日本で、絶望のなかで私が見いだす希望があるとすれば、それはひとりでも多くの若者が来るべき世紀をシオンの地という思いを込めて、それぞれの夢の実現のために突き進んで行くことだ。これから新世紀を生きていくすべての日本の若者たちに、ありったけの声を集めて届けよう。
「君よ、翔べ! 黄金の翼に乗って!」    (p.124)

 

<了>