
副題にある 「資本主義の新しい精神」 とは何なのかと思い読んでみたけれど、単に 「倫理・道徳」 というだけだった。1995年初版の古書。
【価値観・倫理観を支えてきた主体】
日本には西欧のように形而上学的に思惟された哲学・倫理学はないけれど、それらは商道徳として語られてきたものの中に残されている。
稲盛 : 共産主義の崩壊したソビエト・ロシアだけでなく、実はその資本主義社会も崩壊寸前にまで荒廃しきってしまっているのです。
これまで形而上学的な価値観を支えてきたのは宗教でしたが、その宗教が衰えています。キリスト教も、ヨーロッパ、アメリカでだいぶ衰退していますし、日本では既存の宗教が冠婚葬祭の業者と化し、倫理観というものを再構築していく力をなくしています。ですから、われわれは宗教に頼るわけにもいきません。 (p.26)
倫理観を支えてきた宗教が、もはやその役割を果たせていないので、 『哲学への回帰』 というタイトルになったらしい。これまで形而上学的な価値観を支えてきたのは宗教でしたが、その宗教が衰えています。キリスト教も、ヨーロッパ、アメリカでだいぶ衰退していますし、日本では既存の宗教が冠婚葬祭の業者と化し、倫理観というものを再構築していく力をなくしています。ですから、われわれは宗教に頼るわけにもいきません。 (p.26)
日本には西欧のように形而上学的に思惟された哲学・倫理学はないけれど、それらは商道徳として語られてきたものの中に残されている。
【伊藤仁斎】
梅原 : 日本における商人の倫理観ということでは、伊藤仁斎という人物を挙げておきたいと思います。彼は石田梅岩より一代前の元禄期の人です。京都の儒教倫理を武士のものではなくて、町人のものにしようとしたと言っていい儒者です。
仁斎の教えを古義学と言うのだけれども、これはただ昔へ返れと言ったのではありません。仁斎は、縦社会の倫理ではなく、平等の倫理としての 「町人の儒教」 を成立させようとしたと、私は解釈しております。つまり、「忠」 「孝」 という縦社会の倫理より、「仁」 「誠」 「愛」 という横社会の倫理を中心に据えて儒教を考えようとしたのです。だから、すでに工、商で構成される商人社会を、儒教で感化しようという方向性が出ていたわけです。これは徳川時代の儒学で独創的な思想家だと思います。 (p.39-40)
この伊藤仁斎の他に、石田梅岩や二宮尊徳、そして幕末・明治にいたって、「独立自尊」 の倫理を語った福沢諭吉のことが言及されている。梅岩と尊徳は、日本の道徳を記述する書物では決まって言及される人物。仁斎の教えを古義学と言うのだけれども、これはただ昔へ返れと言ったのではありません。仁斎は、縦社会の倫理ではなく、平等の倫理としての 「町人の儒教」 を成立させようとしたと、私は解釈しております。つまり、「忠」 「孝」 という縦社会の倫理より、「仁」 「誠」 「愛」 という横社会の倫理を中心に据えて儒教を考えようとしたのです。だから、すでに工、商で構成される商人社会を、儒教で感化しようという方向性が出ていたわけです。これは徳川時代の儒学で独創的な思想家だと思います。 (p.39-40)
《梅岩・尊徳関連》
『アメリカに頼らなくても大丈夫な日本へ』 日下公人 PHP
【「アメリカに頼らなくても大丈夫な日本」とは】
『男性的日本へ』 日下公人 PHP研究所
【日本の底力】
【共生と競争】
今西理論に関しては下記。
稲盛 : 共生と競争というのは、対立する概念のように理解されがちだと思います。単に言葉だけをとらえるとそうなのかもしれませんが、実は大きな意味で考えてみれば、共生という言葉の中に競争は含まれています。共生してゆくためには、すさまじい生存競争が共生の中の一部のパーツとして存在しなければならない。なあなあ主義では共生が成り立たないのです。 (p.85)
梅原 : これまで私は、今西理論でいいと思ってきたけれども、振り返ってみると、私自身からして競争して生きているわけです。だから、ダーウィン理論と今西理論をアウフヘーベンしたような理論を確立していかなければならないと思います。共生だけだったら、やはり偽善になりますね。おそらく稲盛会長の 「共生と競争」 という概念は、実践の厳しい生活の中から生まれてきたものだと思います。 (p.89)
グローバリズムという世界経済統合化に従えば、進化論的な弱肉強食の世界になってしまう。ユーロ、ドル、アジア通貨のような経済圏による棲み分けが確立してゆけば、競争せぬ棲み分け理論が適用できる世界が実現しやすくなる。 いずれにせよ、現在は世界経済の過渡期なのだから、共存と競争が混在する状況は不可避なのであろう。梅原 : これまで私は、今西理論でいいと思ってきたけれども、振り返ってみると、私自身からして競争して生きているわけです。だから、ダーウィン理論と今西理論をアウフヘーベンしたような理論を確立していかなければならないと思います。共生だけだったら、やはり偽善になりますね。おそらく稲盛会長の 「共生と競争」 という概念は、実践の厳しい生活の中から生まれてきたものだと思います。 (p.89)
今西理論に関しては下記。
《参照》 『商売はこの明るさでいこう!』 樋口廣太郎・船井幸雄・佐藤芳直・大野潔 (中経出版)
【環境が正しければ、競争は発生しない】
【環境が正しければ、競争は発生しない】
【最後の徳】
倫理規範や教育現場をぶち壊しているのは、“最後の徳” を重く理解していない両親のモラル不在である。
稲盛 : 「稲盛さん、ウソを言ったらあかんよ。しかし、ほんとのことを言わんでもいいんだよ」 私はそれを聞いて、飛び上がるほどうれしかった。私も子どもの頃から、ウソは絶対につくなと両親から厳しく教えられていたので、経営者になっても、ウソを言ったらいけないと、心からそう思っていました。しかし、経営する上では、企業秘密に関することや人事に関することなど・・・(中略)・・・。 (p.162)
梅原 : 実業家は、何でも本当のことを言ったらとても生きてゆけないと思います。私も若いときは本当のことを言い過ぎて敵を多く作りました。年とってくると、ウソをつかないにしても、本当のことを言わないという知恵があることをつくづく感じることがあります。稲盛会長のおっしゃったことはよくわかります。
「最後の徳」 である 「ウソをつかない」 というモラルを考えるとき、やはり教育の問題が出てきます。私の母は貝原益軒の 『女大学』 にみられる女のあり方を絵に描いたような厳しい人でした。養母で血はつながっていないのですが、ウソをつくということは人間として最も下等なことだ、と厳しくしつけられ、ウソをついたらものすごく叱られました。 (p.164)
梅原 : 実業家は、何でも本当のことを言ったらとても生きてゆけないと思います。私も若いときは本当のことを言い過ぎて敵を多く作りました。年とってくると、ウソをつかないにしても、本当のことを言わないという知恵があることをつくづく感じることがあります。稲盛会長のおっしゃったことはよくわかります。
「最後の徳」 である 「ウソをつかない」 というモラルを考えるとき、やはり教育の問題が出てきます。私の母は貝原益軒の 『女大学』 にみられる女のあり方を絵に描いたような厳しい人でした。養母で血はつながっていないのですが、ウソをつくということは人間として最も下等なことだ、と厳しくしつけられ、ウソをついたらものすごく叱られました。 (p.164)
【江戸期の「生き方」教育】
昔の教育は、ウソを重くみた。今は、フッっと吹けば舞い上がりそうなほどにウソは軽い。若者たちは自己正当化のために平気でウソをつくのである。こういう学生に対面しながら放置してしまったら教育にならないと思うけれど、中学生・高校生の年代でウソの軽い学生が多くなると、教育する側も、すっかりやる気を失うことだろう。倫理規範や教育現場をぶち壊しているのは、“最後の徳” を重く理解していない両親のモラル不在である。
<了>