
大阪書籍の小学国語に掲載された文章を出典とする3編が記述されている。
この中で印象的だったのは、「洪庵の松明」という文章である。
この中で印象的だったのは、「洪庵の松明」という文章である。
【緒方洪庵】
塾というと小規模ながら学校のような建物を想定してしまうけれど、あくまでも自宅開放で行われていた学問の継承である。
洪庵は備中(今の岡山県)の人である。父が藩の仕事で大阪に住んだために、洪庵もこの都市で過ごした。
中天遊(1783~1835)という学者が、大阪で蘭方医学の塾を開いていて、・・(中略)・・。少年はここに入門した。
中天遊からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸に行ったのは、22才のときであった。
その頃、江戸第一の蘭方医学の大家は、坪井信道(1795~1847)という人だった。
洪庵は坪井信道の塾で4年間学び、この後、長崎へ行った。
幕府は、長崎港1ヶ所を外国に対して開いていた。その外国は限られていて、アジアの国々では中国(当時は清国)だけであり、ヨーロッパの国々ではオランダだけだった。洪庵は長崎の町で2年学んだ。
29才のとき、洪庵は大阪に戻った。ここで診療をする一方、「適塾」という名の塾を開いた。 (p.24-30)
江戸時代の習慣として、えらい学者は、ふつう、その自宅を塾にして、自分の学問を年若い人々に伝えるのである。それが、社会に対する恩返しとされていた (p.28) そうである。中天遊(1783~1835)という学者が、大阪で蘭方医学の塾を開いていて、・・(中略)・・。少年はここに入門した。
中天遊からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸に行ったのは、22才のときであった。
その頃、江戸第一の蘭方医学の大家は、坪井信道(1795~1847)という人だった。
洪庵は坪井信道の塾で4年間学び、この後、長崎へ行った。
幕府は、長崎港1ヶ所を外国に対して開いていた。その外国は限られていて、アジアの国々では中国(当時は清国)だけであり、ヨーロッパの国々ではオランダだけだった。洪庵は長崎の町で2年学んだ。
29才のとき、洪庵は大阪に戻った。ここで診療をする一方、「適塾」という名の塾を開いた。 (p.24-30)
塾というと小規模ながら学校のような建物を想定してしまうけれど、あくまでも自宅開放で行われていた学問の継承である。
【緒方洪庵が開いた「適塾」】
吉田松陰の開いた「松下村塾」は有名である。それに比べ、緒方洪庵の開いた「適塾」はそれほど名を知られていないが、歴史上の著名な人物を数多く排出している。
吉田松陰の開いた「松下村塾」は有名である。それに比べ、緒方洪庵の開いた「適塾」はそれほど名を知られていないが、歴史上の著名な人物を数多く排出している。
後に明治陸軍を作ることになる大村益次郎がいたし、慶應義塾大学の創立者になる福沢諭吉もいた。
福沢諭吉は、明治以降、当時を思い出して、「ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした。目が覚めれば本を読むという暮らしだから、適塾にいる間、枕というものをしたことがない。夜は机の横でごろ寝をしたのだ」という意味のことを述べている。 (p.36)
福沢諭吉は、明治以降、当時を思い出して、「ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした。目が覚めれば本を読むという暮らしだから、適塾にいる間、枕というものをしたことがない。夜は机の横でごろ寝をしたのだ」という意味のことを述べている。 (p.36)
【適塾の訓戒、第一条】
医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ。(p.40)
そういう洪庵に対して、幕府は、「江戸へ来て、将軍様の侍医になれ」と言ってきたのだという。目もくらむほどに名誉なことであったが、洪庵は断り続けた。にもかかわらず、ついには53才の時、いやいやながら江戸へ行き、翌年にはあっけなく亡くなってしまったのだという。
【洪庵の松明】
振り返ってみると、洪庵の一生で、最も楽しかったのは、彼が塾生達を教育していた時代だったろう。
洪庵は、時分の恩師達から引き継いだ松の火を、より一層大きくした人であった。
彼の偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。
弟子たちの松明の火は、後にそれぞれの分野で赤々と輝いた。やがてその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。 (p.40)
この書籍自体が、将来の日本を背負って立つであろう子ども達に引き継ぎたかった、「司馬さんの松明」である。洪庵は、時分の恩師達から引き継いだ松の火を、より一層大きくした人であった。
彼の偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。
弟子たちの松明の火は、後にそれぞれの分野で赤々と輝いた。やがてその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。 (p.40)
<了>