
後編に関しては、キリスト教と武士道に関する記述ばかりに目がいってしまった。
【日本古来の政治習慣は法家である】
大隈は佐賀藩きっての開明家で、法事国家主義者でした。かれがそういう思想を持っていたちうことは、日本古来の政治習慣を通観し、日本文明の統治上の本質は儒教でも仏教でもなく、法家だと一言でのべつくしたことがあるのをみても、察せられることであります。私も同感で、このあたりの洞察眼は大したものです。 (p.28)
これに関して、私には正確な知識が無いから優れた洞察であったのか否かは分からない。書きとめておいて後々の日本理解に関する端緒としておく。
【明治国家とプロテスタンティズム】
明治日本にはキリスト教はほんのわずかしか入りませんでしたが、もともと江戸日本がどこかプロテスタンティズムに似ていたのです。これは江戸時代の武士道をのべ、農民の勤勉をのべ、さらに町人階級の心の柱になった心学をのべてゆきますと、まことに偶然ながら、プロテスタンティズムに似ているのです。ただし、決定的に似ていないところがあります。ゴッドとバイブルを持っていない点です。 (p.31)
日本人でありながらクリスチャン(クエーカー派の信徒)となり、そして 『武士道』 を英文で著し小さからざる印象を世界の読書人に与えた新渡戸稲造(1862~1933)のような人物があらわれた背景として理解しやすい。
【クラーク博士】
マサテューセッツ州立農科大学で学長をしていたクラーク博士は、後に日本に来て8ヶ月間、札幌農学校で植物学を教え、その植物学以上に、生徒に人格的影響を与えた人であることは周知の通りです。
クラークはプロテスタントで人格を作り上げた人物でした。札幌の生徒達もそのことがよくわかりました。当時生徒達おおぜいが、クラークの用意した「イエスを信じるものの契約」に署名したといわれます。この中に明治期の武士道的なクリスチャン新渡戸稲造や内村鑑三がいたことは、いうまでもありません。 (p.38)
【内村鑑三(1861~1930)】
内村は、「私の信仰の先生」という短い文章の中で、私は2人の父をもっているという意味のことを書いています。「私は肉体の父として日本武士を所有し、霊魂の父として排日法を布く以前の生粋の米国人をもちしことを誇りとする」と言い、『代表的日本人』の序文の中で、自分の場合、武士道という精神的土壌が、接木における台木だった。その台木に、キリスト教が接木された、という意味のことを書いています。 (p.116)
【明治時代を象徴する本『西国立志編(自助論)』】
独立心をもて、依頼心を捨てよ、自主的であれ、- おなじことですが - 誠実であれ、勤勉であれ、正直であれ、実例に即して繰り返し 『自助論』 で説かれるこれらの徳目は、清教徒以来の英国プロテスタンティズムそのものであります。それに神が登場しないだけのことであります。明治4年(1872年)にこの本が出版され、数十万部売れたといわれています。つまり、この本の徳目に共鳴するような倫理的風土がすでに日本社会にあったことを表しています。 (p.43)
英国の著述家、サミュエル・スマイルズの『自助論』を、『西国立志編』というタイトルで翻訳した中村敬宇(正直)は、江戸幕府の最高学府であった昌平校きっての秀才で、のちに耶蘇教とになるのですが、それ以前からプロテスタンティズムを人の形にしたような人物でした。
「敬虔」というのは、明治時代に出来た日本語です。英語のパイアティ(piety)からの訳語です。神という絶対者に自己の全てを捧げようとする姿勢を表す言葉です。中村敬宇はクリスチャンである以前から、武士道的なパイアティをもった人でした。 (P.41,42)
今日の韓国にキリスト教が広まっている理由は、明治時代の日本とは全く異なっている。韓国の場合は、「恨(ハン)」が導いたキリスト教である。自らを支配した他者をさらに上位から支配する絶対者を希求し、この実現によって「恨み」を晴らすという心理がはたらいている。この心理の中に、誠実、勤勉、正直などという徳目は皆目無いことは言うまでもない。
【「日本および日本人とは何か」】
という説明を求められたとき、明治人は武士道を出さざるを得なかったのです。ではサムライとは何か、と問われれば、自律心である、ひとたびイエスといった以上は命がけでその言葉を守る、自分の名誉も命をかけて守る。敵に対する情け。さらには私心を持たない、また私に奉ぜず、公に奉ずるということでありましょう。
皮肉なことに、武士が廃止されて(明治4年の廃藩置県)武士道が思い出されたといってよく、過去は理想化されるように、武士道もまた理想化されて明治の精神になったと思います。 (P.117)
「日本および日本人とは何か」という同じ質問を受けて、現代人は明治人と同様に武士道を出したいが、サムライの定義である、自律心はかなり崩壊している。「自由」 と 「自律」 は決して背反するものではないのに、「私」 の 「自由」 ばかりが尊重されて、「公」 を背景とする 「自律」 が軽んぜられてきた。給食費を払わない親達の増大など、そんな教育が原因であることはハッキリしている。
<了>
司馬遼太郎・著の読書記録