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 タイトルがいかしていて、最初のページには、ヨーロッパの農民を描いた画家として有名なブリューゲルの、『雪中の狩人たち』 の絵が挿入されている。故に、著者は人文の方かと思ったら、実は建築が専門の方である。
 結局は、煩瑣な照明の事例ばかりがゴタゴタ書かれているだけで、結論のない、うつろな内容の書籍に思えてしまう。
 読むに値しないことを読書記録に書いておこうか。それとも、あえて比較文化の内容に書き換えて記録しておこうか。


【青い眼 と 黒い眼】
 青い眼では虹彩から光がもれ入ってしまう。「青い眼」にとっては、夏の戸外の黒眼鏡も、観光バスの窓のグレイガラスも、眼球保護のための必需品なのである。 (p.47)
 常に光の乏しい高緯度地方に長く住んでいた北欧人の虹彩色素は薄い。しかも眼窩が窪んでいる堀の深い顔立ちなので、暗い場所が得意なのである。というより明るい場所は苦手なのである。
 世界中の衛星放送で流れているニュース番組を見比べてみるだけで、光に対する習慣の違いは歴然としている。西欧のニュース番組の背景は極度に暗い。

 

 

【採光権 と 日照権】
 採光権があくまでも光の話であるのに対し、日照権は太陽が当たるか当たらないかの話、言い換えれば寒暑の話だ。またしても先方(欧米のこと)では光が問題、日本では寒暑が問題になっている。 (p.89)
 日本でも、日照権は寒暑より光の問題だと思うけれど、著者は、西欧で、窓の外の戸板について質問すると、「部屋を暗くするためです」 という回答をもらってビビッタ様子が書かれている (p.76) ので、その反動であろう、日照権を寒暑だけに限定する勘違いを犯している。
 「自然は神なり」 と心得る日本人は、その由を知ってか知らずか太陽の光に対して重要なものと思っている人々が多い。神道の基本である 『大祓い祝詞』 の中には、太陽のもつ働きが、一般人にとっては訳の分からぬ神の名前に託して表現されている。密教曼荼羅の中心に位置する大日如来を、日本神霊界の天照大御神に置き換えて解釈することも不可能ではない。日本人の日照権重視は、寒暑の問題ではなく日本人の霊性に関するこだわりだろう。

 

 

【ロウソク と 蛍光灯】
 ヨーロッパの住宅では蛍光灯化があまり進まない。・・(中略)・・。私は北西ヨーロッパの住まいの原風景に存在する光源は、結局のところロウソクだと見る。住宅でふだんは電球だが、客がくるとロウソクにする家がある。レストランでも客が座るとロウソクが点けられる。それに、日本とちがって街にロウソク屋のなんと多いことか。 (p.153)
 西欧人が陰影の生じやすい点源のロウソクや電球を愛好するのは、堀の深い横顔を個体識別しやすいからだろう。堀の深くない日本人とっては、陰影を作り出す照明にそれほど有効性はない。むしろ線源であり面源ともなる蛍光灯を用いた全面的な明るさであった方が個体識別はしやすいのである。
 昨日の読書記録と繋がってしまう。 “横顔文化の西欧” 、 “正面文化の日本” という対比が、照明文化にも関与している。
   《参照》   『おしゃれ時代』 ポーラ文化研究所編  
             【前後(正面)の日本 vs 左右(横)の外国】

 

 

【暗さの価値 →  “ゆらぎ” の価値】
 「暗さの文化論」 と副題のつけられているこの書籍のクロージング・センテンスである。
 素人が暗さの価値に気付き、電気スタンドやロウソクを使って自らの部屋に不均一に光を分布させてみること、そんな試みが夢をふくらませるだろう。今、読者に改めて「明るいことはよいことか」と問いたい。私は暗さの価値を再考すべきときがきた、と信じている。
 ありきたりなクロージング・センテンスで白けてしまった。
 暗さだけでは価値はない。明暗を不均一に分布させるだでけでもさしたる価値はない。ポイントは “明暗のゆらぎ” である。電気による照明以前、ガス灯であれ、直接の炎であれ、人間は風に揺らめく光にそこはかとない憩いを見出していた。光源自体が “ゆらぐ” ことが重要なのである。炎を見つめていると、その光のダイナミックな “ゆらぎ” に見入ってしまうことがある。
 暗闇や電気器具によって作り出された光の中には “ゆらぎ” はない。自然の炎の中には “ゆらぎ” がある。この “炎のゆらぎ” が人間の潜在意識を引きだす鍵なのである。拝火教や密教の護摩法はこれを用いているからこそ法力が生ずる。
 一般人にとっても “炎のゆらめき” はメンタルケアに有効なのだけれど、都市に住んでいると自然の揺らめく炎に触れる機会が、全くといっていいほどない!
 
<了>