「無条件の愛」は最凶の破壊兵器 | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

最近、脱スピという言葉をよく目にする。
スピリチュアルを辞めるべきだ…というスタンスだ。
だが、彼らの主張をよく調べると、色々おかしな点を発見する。
脱スピを訴えるくせに、中身は典型的な悟り系スピリチュアルだった…というケースも多い。

特に最近の悟り系では、非二元・ノンデュアリティが注目を浴び、人気を博している。

悟り系の某ブロガーさんは、スピリチュアルの実践にお金が必要となることに対して、相当批判的であった。
激怒していた。
人を騙すインチキ商法ならば、それを批判するのは当然だが、このブロガーは「無条件の愛」なる概念を待ち込み、無償奉仕を絶対正義としていた。

そのブログから引用しよう。
「いろんな神様がいるじゃないですか。また天使とか守護霊がいるじゃないですか」
「彼らこそ、それこそ無条件の愛を極めた人たちですよね。彼らが
「あなたを2万円で愛してあげます」なんてことは絶対に言わないと思うんですよ」


何の根拠もない妄想論だと言わざるを得ない。
まず「神々は無条件の愛を極めている」という根拠なき「思い込み」を前提にしている。
神々の世界を勝手に理想化している。

いかに神といえども、生命体である以上、活動エネルギー源が必要である。
人間が食事をするように、神々も外側のエネルギーを吸収している。
その仕組みによって宇宙のエネルギーは循環している。
故に無条件な存在などいない。

たとえ天国にお金はなくても、人間が捧げるお金には、想いのエネルギーと労働エネルギーが入っている。
それを吸収する神は多い。

ただし個々の神で条件は異なる。
私が知り得ているのは、ごく一部に過ぎない。
私が予想もしなかった条件を有する神もきっといることだろう。

例のブロガー。
「高次元には円も、人民元も、ドルも、ポンドもないんですよ。
彼らはただ無条件に僕らのために尽くしてくれているんですね」


一つ喩えよう。
受験生が神様に祈願しても、無条件に合格させてくれるとは限らない。
「お前がしっかり勉強するならば、合格の後押しをしてあげよう」という条件を突きつける神はざらにいる。

「無条件」という概念を乱用すれば、「何の努力もしないのに、全ての願いが思いのまま」という怠け者だらけの世の中になるだろう。
勉強もしないくせに結果だけは求めるという歪んだ人間で溢れるだろう。

仮に神々の愛が無条件だったとしても、この世にはこの世のルールがある。
現象界は様々な条件により成立している。
故に、神の恩寵が訪れるにしても、我々はこの世の道理(条件)を通じて、それを活かすしかない。

それを無視すれば、この世の秩序は崩壊する。
つまり「無条件の愛」とは、強力な破壊兵器なのである。

また、厳密な意味においては、この宇宙に無条件の愛は無い。
何故なら、あらゆる存在はそれを構成させる条件によって成立しているからだ。
生命体として存在するなら、生命活動を可能とする諸条件が必要になる。

愛も同じだ。
愛と呼ぶに相応しい性質があることが前提であり、その性質を作る諸条件がそこにある。
つまり愛自体が「条件の産物」なのである。

詳しい事は下の過去記事で説明している。
「魂が消滅する時」


某ブロガーの発言を再び引用しよう。
「神から無償で与えられたプレゼントなのに、あなた方はなぜ有料で外に与えるのですか?
あなた方は勝手に神々の間に入り、法外な仲介手数料を取っているということになりますよ。それって、ちょっと悪質じゃないですかね?
あなた方は高次の存在を利用しているだけではないですか?」


まさに、このブロガーがそれを実践している。
己の理想を正当化するために、神をダシにして、無条件という概念を好き勝手に利用しまくっている。


私は無条件の愛を唱える連中から愛を感じたことは無い。
何故ならその者は「無条件であるべきだ」という過酷な「条件」を人に突き付け、冷酷無残に裁いているからである。

まず貴方自身が無条件の愛を実行してみろ、と言いたい。

無条件とはその言葉通り、全ての面において条件が無い…という意味である。
お金のことだけではない。
故にお金という要素・条件のみに絞って論じるなら、その者こそが「条件付きの論法」に頼っていることになる。

脱スピを訴えるのは結構だ。好きにすれば良い。
だが訴える側が悟り系スピリチュアルにどっぷり嵌ってるなら全く説得力がない。
まして理論的根拠は「無条件の愛」だけとは…。
お話にならない。


一言でスピリチュアルと言っても、その幅は広い。
神々や天使の力だけを利用しているわけではない。
我々は現象界で生きているため、人間的な次元の要素も関わってくるし、その次元での努力が必要になる。

指導者がその次元での努力を重ね、教えをまとめ、体系化し、提供するならば、そこに人間的な価値が生まれる。

当然、情報料・ノウハウ料・指導料が発生する。
価値あるものを提供し、クライアントもそこに価値を見出すのだから…。
だが例の脱スピブロガーは、人間的な次元にも批判の手を加えていた。


「もしね、こんなことをセミナー主催者に言うと、
『この値段は決意料です。お金はエネルギーです。エネルギーをかけた分だけ変化も大きい。それだけ決意して臨んで欲しいし、それだけの価値があります!』
という反論が返ってくると思うんですよ。

スピに限らず、自己啓発系のセミナーでは多用される言葉です。
もうね、この言葉、ほとんど詐欺師のセリフですよ(笑)。お金をむしり取る為の詭弁ですよ、皆さん。
この言葉を聞いたら、気をつけましょうね!」


実際、お金はエネルギーである。
ならば覚悟や決意は必要だろう。
それを詐欺だと言うなら、その人の脳ミソがそういう構造だということだ。

「決意という言葉を使う人 = 詐欺師」
という短絡的な結び付け方をする脳内回路が出来上がっているということだ。
思考停止である。

同じ言葉でも、人それぞれ異なる在り方から生まれている。
「愛」という言葉を口にするとき、聖者と結婚詐欺師では、まったく意味が違ってくる。
だが言葉の表面しか見れない人は、言葉だけで判断する。

まして「この言葉を聞いたら、気をつけましょうね!」という誘導は、マインドコントロールの手口と同じである。
本質から目を逸らし、言葉だけで判断するように誘導したも同然だからだ。偏見・先入観と同じである。
だから私は「観照しよう」「本質を洞察しよう」と強調してきたのだ。


この脱スピブログのサブタイトルに、こんな文章がある。
「頑張らなくても大丈夫、急がなくても大丈夫」
悟り系スピでよく見かける言葉である。
赤の他人に向かって安易に「大丈夫」と言ってしまう。相手の人生を身代わりで背負ってあげるわけでもないのに…。

それがどれほど傲慢で無責任な事なのか、気付くこともないのだろう…。

それこそ精神的な詐術である。
この世はスピの精神論だけでは太刀打ちできない問題が山積みなのだ。
難病のため必死に治療やリハビリに頑張らなければいけない人も大勢いる。

そんな人達にとって
「全ての人は既に救われているし、悟っているから大丈夫。何もしなくてOK」
という根源論など何の救いにもならない。
せいぜい気休めでしかない。

ちなみに、このブロガーさん、マントラ瞑想の危険性についての記事もアップしていたが、ご自分が推奨する「座禅」については全く危険性を指摘していない。
だが禅にも禅病・空病がある。
昔から報告されていることなので、知らないはずはあるまい。

私は高い価値を感じたものには、喜んで高いお金を支払うようにしている。
自分の労働エネルギーを評価しているからだ。

自分が一所懸命に働いて、稼いだお金だから、「今の自分にとって非常に価値がある。役立つ」と感じるものには、喜んでお金を使う。

何もスピリチュアル系のセミナーとは限らない。
日常の全ての分野に及んでいる。
相手に高いお金を支払うことを通じて、自分自身の命の営みも評価しているのだ。

逆に、自分が価値を見い出せなかったものにはお金を使わない。
そんなものは選ばない。
それは個人的な基準である。私が価値を感じなくても、他の人は価値を感じるケースがあるだろう。