代理人より。
エンライトが2015年02月11日に公開した記事を再掲載します。
記念すべき「初回」の記事です。
現在2015年~2017年3月末の記事が殆どが削除されていますが、ローカルPCにログが保管されており、復元作業を進めています。
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根源的な悟りや覚醒の世界は、何の意味もない。
価値などあるはずもない。
無に還るだけだ。
故に悟った人が偉いわけではない。
私も「釈迦は偉大な覚者だ」と思う時があるし、ブログにもそれを書く時があるだろう。
だが釈迦の真摯な在り方・人としての努力に対してである。
覚醒そのものに特別な価値はない。
覚醒し、根源に回帰するという事は、何もない次元に溶け込むことを意味する。
何もない以上、価値もあるはずがない。
初期化されるだけである。
故に覚醒者は凄い・凄くない…という基準もない。
その様な評価はただの幻想であり、眠りの状態に他ならない。
覚醒とは真逆に進んでいる姿なのだ。
この世は観念の世界だから、幻想を見るのは構わない。
魂がこの世に降りてきた目的は、幻想の世界で遊ぶことにあった。
だがその幻想体験は、眠りを延々と続けるためのものではない。
体験を通じて、気付きを重ね、眠りから覚めてゆくこと。
そこに本来の目的がある。
私は現実的な生き方を重視しているが、その次元で完結するわけではない。
やはり覚醒の道に繋がっている。
もし、その繋がりまで断ってしまうなら、半永久的に輪廻を繰り返すことになる。
「覚醒すれば、現象界の全てが幻影という事が分かる」
ここまでは悟り系スピリチュアル界の共通認識だろう。
だがその幻想に対して、どの様な関わりを持つのかは、各メッセンジャーで異なる。
この世の全てが幻想なら、なんでもありとなる。
覚醒者が派手な戦争を起こす事もある。
道徳に反する行為に走る覚醒者も…実際にいる。笑
「覚醒者は聖人君子のような高潔な人」というイメージは幻想に過ぎないのだ。
覚者に対して余計な期待はしない方がいい。
いずれ失望するかもしれない。
聖者のような人は単に「聖人君子の道」を歩いて、聖者としての評価基準をクリアしただけである。
全てが幻想なら、すべて等価になる。だから何を選んでもいい。どんな生き方をしても良い。
全ては完璧なのだ。
でも私は、魂を傷付けるような生き方は好まない。
そんな生き方が「完璧だ」とは言いたくない。
正直な気持ちである。
我々がこの世に生まれてきた最大のキッカケは、魂の願望そのものにある。
だからその願望に基づく生き方を一番高く評価したい。
無論それは「真理」としてではない。「心構え」の話だ。
貴方には貴方の道がある。
個々の具体的な方法論は、枝葉に過ぎない。
私はどんな行動をする時でも、前提条件という名の方法論はどうでもよかった。
あえて一つだけ挙げるならば、全力を尽くしたかどうか?
命を懸けたかどうか?
方法論・メソッドも必要だが、主役ではない。
人間が主人公なのだ。
故にその在り方が最大の焦点になる。
貴方の意識が問われる。
それは固定していない。
ある次元をクリアすれば、次のステージに立つことになる。
その都度、最適な在り方も変わる。
釈迦の原始仏教は、徹底して解脱に向かう。宇宙の落ちこぼれになろうとする。
そこに解脱の道がある。
解脱とは「絶対的な死の道」とも言える。
大乗仏教の系統である禅宗は、悟りに生きようとする。
生死を超越した非二元(空)を重視するが、やはり生きることが根底にある。
だから万物の仏性をとても重視する。
生の仏教と死の仏教の違いだ。
それはそれでよいと思う。
どちらも正解。
だが禅には矛盾がある。
生を認め、万物の仏性を認める以上、生が本能に依存する「枠」を優先するのが筋である。
禅はあらゆる枠を取り払ってしまった…。
自由度が高い道だと言うことは可能だろう。
だがその自由は、とてつもない不自由を招いてしまう。
広大な砂漠の中に置き去りにされるようなものだ。
道路標識が無い。
道もない。
地図もない。
その旅人はどこに向かえばよいのか分からなくなる。
歩を進める事すら困難になる。
そして彼はひたすら途方に暮れる。
そして僕は途方に暮れる 大沢誉志幸
(関係ない)
現代の新興スピリチュアルの事情はどうだろう?
宇宙の全体性の流れに身を任せる…というスピが流行中らしいが、その誘い文句には嘘が仕込まれている。
その手のスピには「非二元」「至福」「ワンネス」という名の魅力的な付加価値が用意されている。
それがトラップなのだ。
宇宙に「流れ」というものが生じること自体、解脱ではない。
陰陽という二元と二極法則に基づいている。
非二元ではない。
※厳密には二元と二極は異なるものである。
だが私のブログでは敢えて区別しない。
現象界は二元の法則によって成立する。
その本質は幻影に他ならない。
魂の旅における全てのルートは、時間と空間があってこそ成り立つ。
魂の願望に基づく脚本がある。
だがカルマの脚本もある。
魂の直観に従うならば、我々はこの世で自由に願望を叶え、運を操作することが可能になる。
もちろん「この世の法則において」という制限はある。
生きる…という次元では、生存場所のルールの影響を必ず受ける。
掟には逆らえない。必ず従わされる。
死の次元に至って全てを超える。
時間が消えれば、脚本もすべて消える。
だがそこは絶対的虚無であり、何の喜びもない。至福もない。
私は悟り系スピの真理を否定するわけではない。
「だから何なの?」と問うているだけだ。
身もフタも無い世界に人々を誘っても意味が無いだろ、と。
いずれにせよ…、
そんなことは私の個人的な思いに過ぎない。
貴方の道は貴方が探してくれ。
この世は夢だが、どうせ夢を見るなら楽しく、幸せに感じる夢の方がいい。
そう思っただけだ。
突き詰めれば、個々の在り方にすべてが収斂される。
他に何もない。
