しゃがもうとするたびにいちいち気合いがいる。
膝を曲げると前腿に少しだけ鈍い痛みが走る。
しかしその瞬間に後ろ腿にあたるハムストリングスがボコっと外側にせり出して、地面を捉える。すると痛みは途端に止んだ。
雄大に裾野を広げる斜里岳を写真で見た深田久弥は、憧れの山だった、と書いているという。
富士山のような均整の取れた美しさではなく、深い谷と急な尾根を何本も持ったこの山は、一度中に足を踏み入れると見た目以上に荒々しい。
大雪山系や十勝岳の歩きやすく整備された登山道ではなく、最低限のロープと擦り切れたピンテだけを頼りに進み、下ばかりに気を取られていると頭上に覆い被さる枝に頭を何度もぶつけてしまう野生の趣が最大限に尊重された山だ。
ルートが確立されているコースの中で、これほどの渡渉がある百名山が他にあるのか?とGrok先生に尋ねると、ほぼない。と答えられた。
あるならばぜひ、行ってみたいと思ったのだが、あるとするならば日高の幌尻岳のみで、あそこはキャンプすらできない万年初心者の私には、一生無理な山だ。
体力と筋力(そして熊に遭う勇気)があるならば、全ての人にオススメしたい。
確かにもっと有名な羅臼岳も大雪山も素晴らしいが、上級スキルを持たずともこれだけの身体も心も満足させるダイナミックな風景を味わえる山は他にないんじゃないかと思える。
何万枚の写真でも、動画でも、何万字の文字で書き綴っても、実際に体感しなければ絶対に伝わらない。
それでも好きな山のことはいくらでも書きたい。
延々と繰り返される往路の渡渉は、高度を上げるほどに危険を増していく。
辛いのは、岩に足を載せて川を横切る渡渉だけではない。
渡渉を終えて安心するもつかの間、その脇道のよく滑る斜度のキツい岩盤を全身を使って登っていかなくてはならず、緊張が途切れる暇がない。
滝を滑り落ちていく流れのどうどうという凄まじい水音が耳を塞ぎ、飛沫を全身に浴びながら進む。
過酷な環境、ごく短い夏に、一斉に咲き誇る花の見事さ。
蝶たちは、煌めく青空の下で、花びらのように舞いながら、追っかけっこをする。
このたった三ヶ月に凝縮される命の営み。
この儚さ。
儚いからこそ、圧倒的である。
それでも最初の頃は、ずいふんと転んだ。
滑落したことも、滝に落ちそうになったこともある。
頭ではまるで毎回新しい場所を登っているように忘れているのに、身体はこの山の形を覚えていた。
渡渉のルート選択も、迷わなくなった。
何より筋肉が、山に登れるように進化している。
渡渉を終えるとすぐに胸突き八丁と呼ばれる急登が待っている。
その名の通り、心臓破りの急な坂だ。
それを終えても、頂上に至るまで足元が滑るガレ場が続く。
帰りは帰りで、渡渉ルートとは違うコースを行くが、登ったり下ったりを何度も繰り返す稜線歩きで、それが終わると膝が死ぬような急な下り坂が一時間ほども続く。
一体、いつになったらこの山に慣れるんだ??
いや。慣れなくていい。
慣れないからこそ、いつまでも初めてのように苦しく、楽しいのだ。
下山した途端、いつも私は都合よく記憶喪失になる。
苦しかったことよりも、あのワクワクする危険さ、ときめくような風景だけが、いつまでも心に残り続けた。
登る度に新しい。
登るほどに求める。
日常なんかに永遠に取り込まれることのない、未知なる景色。
健全なる依存。
いい山は、余韻を残す。
男も一緒か。
もはや。恋だな、これは。





