3歳児にひとり、常にぽーっとしてる男の子がいる。
周りの子たちは段々語彙が増えてきて、日常のやるべきことも習慣化されつつあるのに、彼だけはいつも何もかもが遅くてよく先生にどやされている。
でもいつもニコニコ愛想が良くて、普段あまり接する機会のない私を見かけると、こっちおいで。と手招きして遊びに誘ってくれる(笑)。
苦手な食べ物も多くて、時間になると先生に食べるのを手伝ってもらうことも多かった。
ある時。周りがみんなご馳走様をする中、いつもりよりも苦手なモノが多かったからか、箸が全然進まなくて、目線は窓の外だった。
見兼ねた先生が、少しだけイライラした様子で「どうするの?残すの?」と尋ねると彼は、無表情のまま、「…食べさせる?」と逆に先生に尋ね返したから、私は大笑いした。
この一言は、とても興味深い。
まず、あなたは僕に無理やりこれを食べさせるのかい?という意味に取れる。
そして、食べさせられることになんら、不愉快さや恥ずかしさを感じていない未熟さに対し、"食べる"という能動的行為と"食べさせられる"という受動的行為の意味合いを、言語と意味が結び付いていないように思える彼が、いつの間にか理解して使い分けていることに驚いた。
先生方は彼のことを一様に心配する。
オムツを換えるのに5分もかかり、お片付けもできないし、次やるべきことがわからない、と。
一方で、彼はとても数字が好きで、数字の書かれた絵本ばかりを好んで読むらしい。
私はそれを聞いて、思わず、「天才じゃねーか!」と叫んでしまい、先生方は怪訝な顔を私に向けた。
数学者の岡潔の有名な言葉を思い出したからだ。
ー私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた。私について言えば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているだけである。ー
彼はまだ、この"社会"に馴染んでいない。
まだ赤子のような純粋さで、世界の中にいる。
言葉が世界と自分を分ける前の、右脳に直接神が語り掛けていた時代の、だからこそ、ありのままで世間を眺められるような、そういう貴重な時間を、他の、ここに順応しつつある子達よりもずっと長く味わえているのだった。
ぽーっとしているのは、悪いことだろうか?
まだ、三歳児だぞ。
私からすれば最近の子は、生育が早すぎると感じる。
昔よりも早く集団の中に入り、集団生活のルールをいち早く身に付け、空気を読み、言葉を話し、意味を理解し、無意識に次に次にやるべき事をこなす。
それは賢さだと受け取ることもできるが、果たしてそうだろうか??
彼を見ていると私はよくわからない興味に突き動かされる。
周りに合わせて、叱られないように、時間内に終わらせることよりももっと大事なことがある。
そんなふうにも思うのだ。
数学者である岡潔は、ことさら情緒という言葉を使うが(つか、本読んでないけど)、情緒と数字は感覚的に私の中では結び付かない。
しかし世の中の天才たちは、いくつもの重大な発見を論理の中には見出さない。
ある時それは、雷に打たれたように、どこからか突然、なんの脈絡もなく、降ってくるらしい。
岡潔が論理よりも情緒を重要視したのは、論理という因果関係に導かれた答えを求めるものでは、数学というものの真の探究には繋がらないと言いたかったんじゃないだろうか。いや、そんな簡単なことでもないだろうが。
岡潔にとって、数学はどこまでも数学であり、それは永遠の過程であることなのかもしれない。
答えや意味がないことは時に虚しさを覚えるが、しかしだからこそ、永続的だとも言える。
既存の宗教は終末論を唱えることも多いが、たいていはその中で、いかに自分たち"だけ"が生き残るか。それだけを考え、その思想によって今度は新たな支配構造を作り替えるだけに思えてしまう。
"私"を固定化しなければ、"私"には終わりがない。
あの木も、あの花も、あの熊も。
"私"の一部、もしくは、"私"がその一部であるならば、私は永遠だ。
彼にはまだ、形がなかった。
そのことがなぜか、私を安心させ、そしてワクワクさせる。
社会に馴染むことが、ルールに従うことが、そんなに大切?重要?と私は言いそうになって、思わず口をつぐむ。
まあそれが、彼女たちの仕事であることも現実ではあるからだ。
私は彼がそのままで、惹かれるものに夢中になれる時間こそ、大切だと思う。
それが存分にできるのは、幼児期しかないと思うからだ。
鳥は鳴いてしまう。
花は咲いてしまう。
意思するわけでもなく、意図するわけでもなく。
人は生まれてしまう。
そして、死んでしまう。
悲しいことだが、もう、虚しくは、ない。


