今朝の気温8度からの正午30度。
エゾハルゼミがジージーと鳴き出すと、初夏がやってきたと思う。
しかし25度を越えた辺りから、その鳴き声はピタッと止んだ。
あまりの気温差に植えられたばかりの苗たちは、慣れない暑さにバテ気味だ。
そんな中でも強いのは、いちごたちである。
植えっぱなしで冬も放置。
春になって花が咲いている途中のものですら掘り起こされ、貼り直してもいないマルチの隙間に雑に植え替えられても、枯れることなく全ての株がすくすく育っている。
さすが、野生児。
外で逞しく冬を越した彼女たちは、ちょっとやそっとじゃびくともしない。
暑かろうが寒かろうが、それが自然でしょ?と言わんばかりに。
暑さが好きなのは、ひまわりだ。
種を撒いてからだいぶ経っているのにうんともすんとも言わず、やっぱり鳥の餌用だからダメなのかな…と思っていたら、今日になってぶっとい芽がよいしょ!と大きな種を持ち上げた。
芽吹く瞬間は、どうしてこうもワクワクするのか。
暑さに葉を茶色に枯らし今にも死にそうな野菜たちの苗の横で、この時を待ってました!とばかりに一気に芽吹く。
乾いて固くなった土の表面を破るように命が今、湧き出した。
ブルーベリーの花は、なんで下を向いて咲くのだろう。
風が吹けばりんりんと音がしそうな鈴なり。
しかし暑さはどうやら今日で一旦、終わるらしい。
また明日からぐんと気温は下がり、春へ逆戻り。
それでも勢い付いた作物たちは、その営みを止めることはない。
冷暗所の味噌を確認し、キッチンの糠床をかき混ぜ、畑に水をやり、ぴー様に挨拶する。
仕事の合間に生き物たちのお世話をし、一日が過ぎていった。
ぴー様は言わずもがな、だが、ぬか床も味噌も苗も、私の声がけに反応していると思うのは病的妄想だろうか。
私が生きていると思い、私に愛着が湧けば、"これ"らは"彼ら"になる。
なぜ。人間だけ(ではないが)に心があると思ってた?
野菜もデゴイチ(‼️)も、私の思いや考え方次第で心が宿っていると信じられてしまう。
そもそも、心ってなに?
心があると確認できるのは、自分でしかないのに。
他者に自分と同じように心が宿っているだなんて、どうやって確かめられるんだ?
そもそも私は、脳で全てを輪郭付け、認識している。
他人の心は自分の心ではなく、共感は想像でしかない。
そうなると、私という存在すら危うい。
毎晩いなくなる自分が怖くて、眠る行為そのものが恐怖でしかなった幼少期。
偉大な哲学者たちの深い思考は、きっと私と同じような疑問に端を発していたはずだ。
だけど愛だけが、そういう孤独を一瞬忘れさせる。
論理的に科学的に、誰もが納得できる客観的な答えを求め続けても、結局は愛という曖昧な概念に救われるのだった。




