セレーション(夏登山2回目 西別岳) | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。


  先週の1つ目と同じ山。
  今日は、大人数で登った。
  職場の子、友人、その家族たち、など。



  最初の坂こそキツいけれど、距離は程よく、標高は低く、登山道はよく整えられ、特に難所はなく、しかも絶景。


  ここは、初めての登山には打って付けの山である。



  久しぶりの人、ほぼ初めての人。

  でも、初心者でもスイスイと登れる人が時々いて、やっぱり何事も才能というものがあるのだな…と感じる。



  ほぼ初めてのその子は、いわゆる天然キャラで通っている。


  たいていは、何時間ぐらいかかるのか、どれくらい辛いのかを質問してくるが、その子はそういうことをまったく尋ねて来なかった。



  体型は細く、日常的に走っているので、体力に問題はないのだろう。


  けれどもやはり、坂では大股でガシガシと登っていたから、後半はバテるだろうなと思って見ていた。



  案の定、少し年寄りのゆっくり組が稜線に出る頃には、その子たちに追い付いた。


 若い子たちはその柔軟な筋肉と有り余る体力に任せて、最初は一生懸命登るのだが、後半は経験者たちの一定のペースで体力を削らずに登ってきた人達に追い付かれる。


  でもそれを私はいちいち咎めない。

  だって何事も、自分で経験してみなきゃ納得できないだろうから。



   疲れてくると機嫌が悪くなる子、疲れていても笑顔でいられる子。


  山ではそれぞれの人の個性のようなものがよく見える。


  天然キャラのその子は、仕事もマイペースで要領もそんなに良くなく、少し頼りないと思われることが多いが、私は彼女の同年代の中で、一番強靭なメンタルを持っていると思っている。



  そんなに人のことを深く観察もしないから、時々周りがヒヤッとするようなことを言ったりするけれど、でも、観察していないわけではい。


  ただ他人をカテゴリー分けする気がまったくないのだと思う。(いや。してはいるのだろうが、大雑把だ)好き嫌いは自分の中にあるだろうし、それを口にしたりもするけれど、あまりそのことに拘り続けない。

  

  周りから見られることに執着し過ぎず、自分のできる範囲のことをマイペースにこなす。

  しかし自分で抱え切れないことは、周りに相談して無理をしない。


  自分の努力でなんとかしようとしないし、問題に囚われ続けない。


  そういうところにイライラする子もいるけれど、私はこの子が自分はバカだって言うけれど、自分のことを実は誰よりも客観視できているとても賢い子だと思っている。



  人の観察も花や動物の観察と同じだと思えば、美醜の感想はあれど、裁く必要はない。



  面白いと思えることは、分類する過程の中にある。



  一方で、心地良さは自分と世界の境界線にあるようにも思えた。



  生き残る術を探せば、因果関係や分類が必要であるが、全ての生命が生死の循環で続いているのだと腑に落ちれば、この一瞬が全てになる。


  それは、個体としての自分の存在が、ある事柄に夢中になったとき曖昧になった。

 暑さと運動により上がる熱と疲労感が強烈に 私の存在を脅かすのだが、私はそんな私に構っていられなくなるほど、一歩でも前へ進むことだけに夢中になる。

  私は私を守るために私を捨てる。


  エゾフクロウだろうか。 

  行きにはなかった大量の羽根が、帰り道の登山道に落ちていた。


  一瞬、熊か?!と怖気付いたが、キツネかイタチの類だろう。


  巣立ったばかりの幼鳥が、また上手く羽ばたけず、獣に狙われたのかもしれない。


  精巧な羽根の構造に足を止めてしばし魅入る。


  フクロウ(シマフクロウ以外)の風切り羽根は、ギザギザになっている。  

  この構造により、空気を拡散することで羽音を消して、獲物を静かに狩ることができるという。


  この構造はセレーションと呼ばれ、新幹線に採用されている。

  

  生態系の頂点にいるようにも思えるフクロウも、こうやって狙われてしまうのか。


  強いものほど気配を消しながら、獲物を確実に仕留めようと物陰から息を潜めて狙っている。


  山は、文明の力に頼り切りのくせに生きていて当然!と傲慢になる私に、いつでも命は生身であることを思い出させた。


  何事も体感を伴わなければ納得できない。

  自分とは全てが異なることが苛立つことなく面白いと思えるのは、世界が結局は同じであるという諦めにも似た安心感に支えられているからだ。

  

10:12 登山口

11:39 西別岳

13:08 登山口

往復2時間56分(内休憩27分)