真っ白な画面に何か文字を打たなくては、と思う。
これは、感情の吐き出しなのか、思考の整理なのか、はたまた記録なのか、承認欲求を満たすためか、それともただの習慣か。
たぶん、どれでもある。
中でも一番は、習慣なのかもしれない。
書けない日は、なんとなくモヤモヤする。
書きたいことはたくさんあるのに、頭の中で文章にしているうちにまあ、いいか。と自己完結することも多くなってきた。
けれども書かないでいると、頭の中で考えていることを口にすることが苦手になっていることにも気付いた。
やはり、どう思われようが言葉にしてみる作業は必要だ。
ここまで書いて、筆(指?)が止まる。
結局私は何が言いたいんだ?
何も考えていないわけじゃない。
疑問と不思議は毎日のように溢れている。
だけどそれって、読む人にとってどうでもいいことなんじゃないか?と今更ながら思っている自分がおかしいと言えばおかしい。
そう、連休の二日間は天気が良くなくて、山に行けなかった。
外で身体を動かせないことにストレスが溜まる。
治り切らない風邪症状にも若干イライラしている。
豆腐を作ったり、掃除をしたり、ぴー様を構ったり、歴史の動画を見たり、読みかけの本のページを開いたりするのだが、書けないことに一番のストレスを感じていた。
ここに文章を書くと、なんでかスッキリする。
投稿!を押すと、ごちゃごちゃした頭の中が一旦、整理される気分になるのは、何でだろう。
ここに本当の私がいる。
たぶん、そういう妄想に取り憑かれているのかもしれない。
野菜の芽をじっと見る。
ここにいるどの芽もさいしょは二つの葉っぱを出す。
どうして二つなんだ。
私の目も二つ。
目と芽は、同じなのか。
そう思うと、その不思議が頭から離れなくなる。
ああ!Grok先生に聞きたい!
最近はすぐにGrok先生に聞いちゃうのが良くないのかもしれない。
考える過程を飛ばして、答えらしきものをくれるGrok先生が、私から書く気力を奪っている。
なぜ、目と芽は二つあるのか。
Grokを開きたい欲望を抑えて、自分の頭で…というよりも、今までに知った知識を総動員して、自分なりの仮定の答えを導き出してみよう。
生命は、基本的にオスとメスが出会って生まれる。
もちろん、原始的な生命は自己増殖できるのだろうが、多様性は異なる二つの性が出会って、より環境に適応する種を生み出してきた。
それがなぜ、二つなのか。
そこが問題だ。
人の認知は、比較からできている。
行動はやるかやらないかの二つの選択である。
行動の選択のための比較は基本的に二つなんじゃないか。
善か悪か。
正解や間違いか。
しかしそれが、苦しみの元だ。と言って、中道という言葉を発明(?)したのが、龍樹(ナーガールジュナ)。
では、中道の観点から、この二つの目と芽はどう導き出されるだろう。
この二つに分かれているように見えるものたちも、本当は二つではないのかもしれない。
天と地が二つに分かれて、世界が生まれたというのは、いろんな神話や宗教にある天地創造の物語だ。
渾沌から天と地が分かれ、人は認知という機能を獲得した。
二つは、人が考えることの出発点だったのかもしれない。
二つの隔たりは、衝突し、結合する。
性行動は、破壊と融合という相反する概念を併せ持つ。
引き裂かれたもの同士が、自分の命を引き換えにして新しい命を生む。
ダイナミズムという言葉が思い浮かぶ。
すると、この小さな芽がただの葉っぱではなく、途端に躍動的な自分と変わらぬ自己を持った生命に思えてくる。
そうか。
躍動の中に身を投じる。
それこそが、私が思う生きる意義、意味、理由。
意味のないものに価値をつける。
それは、他者ではなく、自分でしかないのだ。
そしてそれは、自分の意志で選び、動き出そうとする一歩からしか生まれない。
ということで、山に行ってきます(*`・ω・)ゞ
