船に乗ったのは、人生で三度ほどしかなかった。
私は三半規管が弱いのか、子供の頃から車酔いがひどい。
今も、人の運転では酔ってしまうので、後部座席は苦手だし、運転することが好きではないのに酔いたくないから、なるべく自分が運転する。
船なんて以ての外である。
そのうち二回は、吐くまではいかないが、乗った途端に気分が悪くて、大丈夫そうに振舞ってはいたけれど、正直、楽しむどころではなかった。
しかし、釣り船出すから船に乗らない?と漁師の友人に誘われ、多分酔うから釣りどころじゃない。と、一度は断るも、イルカやクジラが見れるかも!と言うので、カメラを持って乗せてもらった。
出港した途端に身体がゆらゆらと揺さぶられると、やっぱり胸の辺りがムカムカしてきた。
あんたは、神経質だから、酔うと思うから酔うんだ。と昔、母親に言われたことを思い出す。
確かにそうかもしれなかった。
自分は乗り物が苦手と思い込んでいるから、その考えに囚われてしまって、やっぱり酔う。
だいたい酔っていたら、シャッターチャンスを逃す。
大の苦手だった登山ですら、大好きになれたのだから、ここいらでそろそろ、乗り物酔いも克服したい!
イルカもクジラも見られなかったけれど、マグロがジャンプするのは見られた。
カメラで捉えられなかったけれど、その瞬間は興奮した。
初めは揺れに耐えられず、何かに捕まっていたり、気持ち悪くなりそうで座り込んでいたけれど、マグロを見た途端に気分が晴れた。
そこからまったく酔わなくなった。
それは、私は絶対もう酔わない!とその瞬間から心に決めたからだ。
何にも捕まらなくても、二本の足をしっかり甲板に載せて、視線は常に船首の方へと向けていれば、ふらつくことすらなくなった。
今日は波はないけれど、うねりが大きい。と友人が言った。
確かに海の底から船が持ち上げられるような感覚があって、自分の体の軸のありかを失いそうになる。
体内の水分までもが、満たされたグラスから水が零れ落ちるみたいに揺らされ、気を抜くと胃の内容部が逆流してくるあのおぞましい記憶に支配されそうになった。
いや、違う!
ふらついた足元をもう一度、甲板に押し付け、身体の軸をみぞおち辺りに確かめる。
どんなに船がゆらされても、私は揺れない。
というより、揺らされつつも、また元に戻ることを意識して委ねる感覚だ。
どんなに体はゆらされても、みぞおちにある私の軸は確かにここにある。
そう信じられた瞬間に私は酔わない!と自信を持って宣言した(心で)。
海から望むじっと動かない知床連山すらも、私の身体を支えた。
船に寄り添うようにカモメがゆらゆらと波に身を任せている。
カモメはあんなに揺れているのに、酔わない。
波に逆らわず、波に委ねつつも、その見えない水面下では、流され過ぎないように必死に脚をばたつかせているかもしれない、あんな涼し気な顔をしていても…と思うとおかしい。
山の斜面の細いトラバースを落ちないように注意深く歩いている時にも似ている。
私の身体は私なのに、この身体は、その時はなぜかたくさんの別々の私の集まりであるんだと思えてならない。
私を斜面から落とそうとする重力や風に抗おうとすればするほど、身体は意志に反して震えた。
しかしバランスは抵抗して打ち勝つのではなく、委ねて上手く受け流すことなのかもしれない。
身体は鍛えれば応えてくれる。
心も同じだ。
ー生命には、物質の下ろうとする坂を
登ろうとする努力があるー
とベルクソンは言ったそうだ。
秩序あるものはすべて、秩序が乱れる方向に動く。
命あるものは、すべて死ぬ。
でも、自らを分解しつつ、再構築する力で、命は生きている。
私はひとつの秩序を壊した。
私は今、絶対に船酔する私を壊し、酔わない私を作り出す。
来年も行こう!と友人は誘ってくれた。
持つべきは漁師の友人(笑)。
次は絶対に釣竿を持っていこう!
今度は、タンタカ釣るど!



