朝起きて、小皿を覗く。
その習慣は、わずか五日間で終わりを告げた。
無意識に身体が動くようになること。それは自身の生活の一部になった証なのだが、その必要性がなくなるとその部分はぽっかりと穴が空いたようになる。
手で触れても、それまでのように抵抗しない。
徐々に弱っていく過程の中でも、昨晩は、その糸よりも細い足が微かに震えていただけだった。
それすらもなくなり、ぽん。と指で触れると、真横に身体が倒れる。
内部から何かを取り込んでは排出するという運動を失ったそれは、私という生命に触れても反応することがない。
この状態を死と定義して、私は庭の畑に彼を埋めた。
動かなくなりまるで"モノ"のように"それ"と呼んでしまったものは死を介して、再び私の中で尊厳を取り戻す。
そうか。埋葬は、尊厳の確認であり、同時に復活の儀式なのか。
私は彼を自分と同じ生命として扱うことで、自身の尊厳すらも確認していたのかもしれない。
習慣を手放して、私は彼を徐々に忘れるだろう。
彼のお世話をしていた隙間は別の何かで埋められる。
彼の存在は私の記憶の深い場所へちょっとした悲しい感情と共に沈められる。
その意識できる上澄みだけで、私は生活を回していた。
ぴー様が私の肩の上に乗り、私の手の上の蝶を不思議そうに眺めている。
おまえは一体これを何だと思っているのか。
言葉で世界を認識しないのにまるで同じ感情を持っているような君をいつも私は不思議に思う。
鏡を見ると嬉しそうに歌を歌うけど、その目の前にいるもう一人の自分との境目がぴー様にはない。
鏡を見て、私は私だと思う。
しかしぴー様は、それを自分だとは思っていないだろう。
自分と同じように振る舞う鏡の中の自分は、自分ではなく、彼にとっては他者だ。
その証拠に彼は仲間だと思うのか機嫌よく歌を歌い、そして鏡に映る自分にキスをするようにその表面に口付けるのだった。
鏡を見て自分だと思う人間と自分ではないと思うぴー様と…いや。ぴー様は、鏡の中の存在を自分だと思うことも自分ではないと思うこともない。
じゃあ一体、それは彼にとって何なんだ?と考える。
何なんだ?と考えること自体、ナンセンスだ。
言葉を持たない彼は、物事を分けて認識する範囲がそもそも私とは違っている。
だからきっとそれは、他者のすべてに言えることだ。同じ人間だと思っていても。
最初から、みんな、自分とは違う。
赤ちゃんとぴー様の目を私はいつも新鮮にまじまじと見てしまう。
分けてしまう私が、分けていなかった頃の世界をどうにかして思い出したいみたいだ。
それは大袈裟に言うと、死の中にある生を、生の中にある死を同時に感じようとする行為なのかもしれない。
意識にのぼる上澄みの秩序が私という現実を作る。
私はその浅い水面ですいすい泳いだり、溺れたりして、生きていることを実感している。
しかし認識が、言葉が、感じることの邪魔をする。
書き連ねるほどに本質が遠ざかっていく。
意味を、原因を、探ろうとするほどに問題は迷宮入りだ。
私は自分と世界、生と死を分けて、孤独になる。
"あなた"がいなければ、私は孤独を感じられない。って、歌っていたのは宇多田さん。
そう。好きになるほどに、必要と思うほどに、私は孤独になる。
それは、なんと、愛おしい感情!
孤独が悲しいか、愛おしいのか。
それを選べる自由を私は手にしている。
春に先駆け、まっとうされた命に向かって、手を合わせた。合掌。
そういえば、右手と左手を合わせたら、あったかいと感じるけれど、あたたかいのは右手か?左手か?
キツく、両掌を合わせるほどに境目がなくなって、どっちの温度も感じられなくなる。
あ。分かれているものが、今、ひとつになった。

