赤ちゃん連れフォトグラファーのAzusaです。
ご覧いただきありがとうございます。
初投稿は自己紹介①として、
「母子家庭で育った幼少期から、高卒で公務員として働き退職を決意するまで」
について書きたいと思います。
余談ですが、
今日は2月22日。
ゾロ目を見ると、幼い頃に母が
ゾロ目の日の鉄道切符を買って来てくれたのを思い出します。
まず始めに
これだけは伝えたいのは、
私が人生の岐路において、
どのように考えて、行動してきたか
を知っていただけるように、
辛かったり、
悩んだり、
大変だった時
のエピソードを中心に書いています。
それらを通して、
当時は先が見えずに
苦しんだこともあったけれど、
今何とかなっているから
どんな状況もきっと乗り越えていける
ということ、
そして
人生は自分で選んで、
いくらでも変えていける
ということ
を伝えられたらと思っています。
今の私はとても幸せです。
そこに至るまでに、
私がどのような道を歩んで来たか、
母は私が二歳の時に
父と離婚しました。
アルバムの中の父の写真は
全て抜かれているので、
ほとんど、というのは、
祖母が一度だけこっそりと
写真を見せてくれたことがあります。
私の記憶にある父の顔は、
ただその写真に写ったもののみです。
私には年子の妹がいます。
女手一つで
二人の幼い子どもを育てるのが
容易ではないことは想像に難くありません。
母は私たち姉妹が幼い頃から
働きに出ていましたが、
いつも妹とイワシの缶詰を食べて、
母の帰りを待っていました。
祖母には常にお金の大切さを説かれ、
幼心に とにかく節約を心掛けていました。
そして、
疲れて帰ってくる母の笑顔を見るために、
母が喜んでくれることを第一に
考える生活を送っていました。
そうする中で、
自分の気持ちは抑え、
人の期待に応えることが大事 だ
と思い込むようになっていき、
吝嗇家、
負けず嫌い 、
完璧主義
という私の素地が形成されました。
母には弟がおり、
父親のいない私たち姉妹に
いつも優しくしてくれました。
その叔父の影響で、
気付けば、
将来は叔父と同じように医者になりたい
と思うようになっていました。
しかし
医学部の道は険しく、
また経済的にも大学へ行く余裕はなかったため、
母に勧められるがままに
地方公務員の試験を受けました。
高校三年生の秋のことです。
基本的に
女性でも定年まで無理なく働くことができ、
福利厚生も充実している
”安定した職業代表”
の人気は高く、倍率は20倍以上。
勉強は試験の二、三ヶ月前からやっと始め、
面接は遅刻した挙句、
短いスカート×くるぶしソックス
というアンバランスな格好。
結果は全く期待していなかったのですが、
まさかの合格。
たまたま通知は
私自身が郵便受けから取って開封したので、
一瞬だけ、
(このままこれを捨ててしまえば、
なかったことになるかな)
という思いが過ぎったものの、
即座に
(ずっとかわいがってくれたおばあちゃんを
安心させてあげたい)
という思いが勝り、
折角の機会をありがたく頂戴し、
医者になる夢は諦めて
公務員になる決意をしました。
私は男性ばかりの職場に事務員として、
局内のIT化を推進する課に配属されました。
まだ高校生の感覚が全く抜けず、
社会人らしさのかけらもなかった生意気な娘にも、
当時の上司や同僚はとても親切にしてくれました。
仕事は毎日九時五時、残業なし、
事務処理は朝の一時間もあれば十分過ぎるほどで、
それ以外に任されるのは
お茶汲みやコピーばかり。
方や先輩は忙しそうに駆け回っている。
そんな毎日を
何とかしたい
と思っていた頃、
課の上司が変わります。
その上司は私の直談判を聞き入れ、
別の仕事を任せてくれるようになりました。
少しずつ仕事が楽しくなってきた矢先、
異動希望調査の季節がやってきます。
その時、
それまでずっと見ないふりをしてきた、
医者になりたいという夢を
どうしても諦められずにいる自分を直視
することになります。
もう一度挑戦するなら、
今しかないのかもしれない。
公務員として働いた三年間の
良かったところも悪かったところも振り返った上で、
誰にも相談せず、
安定した未来を捨てる覚悟をします。
自己紹介②「公務員を辞め、極貧の浪人生活へ」に続きます。
