「カラーメゾチント」という独自技法を開拓し、
20世紀後半に国際的に活躍した銅版画家、浜口陽三。
ヤマサ醤油株式会社が、その作品を収蔵・展示する目的で、
1998年に開設したのが、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションです。
個人的に浜口陽三が好きなので、これまでに幾度となく訪れています。
そんなミュゼ浜口陽三で、この夏の最新企画展、
“浜口陽三と白倉嘉入展 満ちてくる光”が始まったので、早速足を運んできました。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を頂いております。)
会場に入ってまず目に飛び込んできたのは、意外や意外・・・・・
壁一面に飾られた南画・水墨画の数々でした。
あれ?ここ、本当にミュゼ浜口陽三ヤマサコレクション??
一瞬、間違って別の施設に入ってしまったのかと、本気で焦りました(汗)。
なんでもこれらはすべて、白倉嘉入なる南画家の作品とのこと。
正直なところ、まったく存じ上げず、
字面も初めて目にした人物だったのですが、
学芸員さんによれば、開館時より「白倉嘉入」の名は館内にあったそうです。
美術館入り口に設置された浜口陽三の年表にご注目くださいませ。
その1941年(32歳)の欄に・・・・・
確かに、「南画家白倉嘉入」の名がありました!
なお、こちらの年表は、浜口陽三が生前に自身で監修したものなのだそう。
自身のことについて多くを語らなかったという浜口が、
わざわざこの一文を記載したということは、よほど重要な出来事だったと考えられます。
とはいえ、なぜ京都在住の嘉入のもとで学んだのか?
なぜ南画家の嘉入に、南画ではなく水墨画を学んだのか?
その辺りは一切に謎に包まれているそうで、今後の研究が期待されます。
では、白倉嘉入とはどんな人物なのか?
そのプロフィールを簡単にご紹介いたしましょう。
嘉入は、1896年に新潟県生まれました。
12歳から南画を学び、京都に移住してからは、
南画の復興に尽力した小室翠雲に師事しています。
若き日は「二峰」という号で活動しており、
1940年、浜口と出逢った頃に「嘉入」と雅号を改めたそうです。
なお、長年にわたって、知る人ぞ知る存在でしたが、
2024年、大阪の天門美術館にて初の回顧展“白倉二峰展”が開催されました。
本展は浜口との2人展ですが、東京で・・・いや、東日本で、
嘉入が本格的に紹介されるのは、今回が初めての機会とのこと。
本展には、初公開を含む約50点の白倉作品が出展されています。
しかも、所蔵者のご厚意で、ガラスケース無しの状態で展示されていました!
本展を通じて、初めて白倉嘉入の作品を目にしましたが、
何よりも印象的だったのは、間近で観るのも良いのですが、
距離を置いたほうが、作品の細部の魅力に気づけるということ。
近くでは見えなかったものが、遠く離れると見える。
実に不思議な鑑賞体験でした。
具体例を挙げると、例えば、こちらの《黒部峡図》という作品。
画面の上部にうっすらと描かれた部分は、
近くでは、ただのモヤモヤにしか見えないのですが、
離れて観ると、本当に遥か遠くにある山々に感じられるのです。
また例えば、こちらの《菊園図》という作品。
近くで観る分には、ただの白い点々なのですが、
離れてみると、ちゃんと生命力のある菊の花に見えるのです。
まず展示されていたのは、浜口が銅版画に辿り着く前、
嘉入に学んだ後に描かれたと思われる墨画の数々です。
さらっと描かれているようですが、
墨の濃淡の表現は、ただものではありません。
ちゃんと水墨画の技術をモノにしていることが見て取れます。
続いて、銅版画を始めた頃の作品も紹介されていましたが、
これらにも、白倉嘉入の影響が感じられる部分が多々ありました。
特に印象的だったのが、《大川橋》という作品。
もしかしたら、若き日の浜口は、
この作品からインスパイアされていたのかもしれません。
そうそう、インスパイアといえば、
浜口の初期の銅版画のいくつかには、
小さな人物がちょこちょこ登場していました。
これもまた、嘉入の影響なのでしょうか。
ちなみに。
浜口はその後、自身の代名詞といえる、
メゾチントという技法に出逢い、その道に邁進します。
嘉入との交流を知った上で改めて観てみると、
白くほんわりと光を放つような表現は、どこか嘉入の南画に通じるものを感じました。
これまでは浜口陽三の黒にばかり目が向いて、
白い部分をそこまで意識したことがなかったのですが、
これからは、光の表現にも目を向けたいと思います。
知られざる白倉嘉入という画家の魅力に気づかされ、
彼の作品を通じて、浜口陽三のさらなる魅力に気づかされる。
二人展の理想形ともいえる展覧会でした。


















