今年2026年は、明治の末から大正初期にかけて活躍した、
日本画家・今村紫紅(1880-1916)の没後110年目に当たる節目の年です。
それを記念して、彼の生誕の地である横浜の横浜美術館にて、
“没後110年 日本画の革命児 今村紫紅”が開催されています。
さて、本展ポスターで何より気になるのが、
「暢気(ノンキ)に描け」というパワーワードです。
実はこれは、キャッチコピーではなく、
紫紅自身が生前に語った言葉なのだそう。
本展の冒頭にバナーでその全容が掲げられていました。
そんな暢気な画家(?)こと今村紫紅の回顧展は、
昭和59年に山種美術館で開催されて以来、実に42年ぶり。
公立美術館では初となる大規模な回顧展です。
・・・・・ということは、没後100年のタイミングは華麗にスルーされてしまったわけですね。
近代日本画の歴史に、確かな足跡は残したものの、
いまいち一般的にはパッとしない印象のある今村紫紅。
その彼のことをまず知るために、本展の冒頭では、
展示室1室を使って、紫紅の人生がダイジェストで紹介されています。
その名も、「しっとうこう、しこう」。
・・・・・ダジャレですね(笑)
なお、こちらのダイジェストは、
時系列に沿って作品が紹介される、
今回の今村紫紅展のダイジェストにもなっていました。
さて、本展は全4章で構成されています。
まず、第一章は「古画のよい処を分解して、その後を追え!」。
平親王とは、自らを「親皇」と名乗り、
紫紅の歴史画の中には、こんなユーモラスな作品も。
蹴鞠の名人と称された藤原成通を描いた《鞠聖図》です。
休むことなく蹴鞠に励むこと1000日目。
その夜、成通のもとに鞠の精が訪れました。
伝説によれば、その精は猿の手足を持った子どもの姿をしていたそうですが。
紫紅はあえて、猿の姿で鞠の精を表現したようです。
それくらいのアレンジはいいと思いますが、せめて鞠は手で抱えるなよ。
蹴鞠のせいなんだから、蹴ろよ。
さて第二章は、「絵画は矢張多方面に描け!」。
31歳となった紫紅は、第5回文展に、
「醍醐の花見」を題材にした大作《護花鈴》を出品しました。
三渓園で知られる横浜の実業家・原三渓は、
この絵に大きく感銘を受け、紫紅に毎月100円を支給することを決めます。
それまでバイトで食い繋いでいた紫紅は、支給金をもとに東京から小田原へと転居。
三渓の所蔵する美術品にも触れながら、さまざまな主題に取り組みました。
それは、中国の明清時代の古画風であったり。
さらには、当時はまだそこまで知られていなかった琳派風だったり。
特に、俵屋宗達をリスペクトしていたようで。
本展には紫紅のオリジナリティが全面に出た《風神雷神図》も出展されていました。
第三章は、「自由も、新も我にあり!」。
生活にゆとりが生まれた紫紅は、
32歳の時に、近江八景を描く写生旅行に出かけました。
その取材をもとに描かれた《近江八景》は、紫紅の代表作の一つに。
現在は、重要文化財にも指定されています(注:展示は6月5日~6月28日)。
さらに、その翌々年には、新たな主題を求めインドへと渡航。
その取材をもとに描かれた大作《熱国之巻》もまた、重要文化財に指定されています。
自分が訪れた時は、その2巻のうち「朝之巻」が展示中でした(注:展示は5月20日まで)。
描かれているのは、インドへ向かう道中で目にしたシンガポールやペナンの水上生活者。
よっぽど東南アジアの海は眩かったのでしょう。
画面全体に金砂子が存分に撒かれています。
画面の中盤には巨大な虹がかかっているのですが・・・・・
虹に覆い隠されて舟が判別できないほどでした(笑)。
個人的には華やかさに目を奪われましたが、
「色彩が火事のように猛烈で狂っている」など、
発表された当時は、賛否両論を巻き起こしたそうです。
インド取材旅行の費用も捻出したパトロンに原三渓もお気に召さなかったようで。
「紫紅君一代の悪作にして脱線の甚だしきものと存じ候」と語っています。


さて、本展を締めくくる第四章は、「暢気に描け!」。
享年はわずか35歳でした。
本展の最後に飾られていたのは、安田靫彦による《紫紅の像》。
今村紫紅の追悼展覧会に展示された作品です。
ダウ90000のメンバーの一人に、こんな顔の人がいたような気がします。





















