今年2024年は、竹久夢二生誕140年の節目の年。
くわえて、読売新聞が創刊して150年の節目の年でもあります。
それを記念して、竹久夢二美術館では現在、
“竹久夢二と読売新聞”という展覧会が開催されています。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を頂いております。)
朝日新聞でも、日本経済新聞でもなく、竹久夢二と読売新聞。
なにゆえ、読売新聞なのかと思ったら、
実は、竹久夢二には読売新聞に入社していた過去があったのだそうです。
こちらは、入社後初めて夢二の絵が掲載された記事。
その紙面デビューは、江戸川の桜を描いたものでした。
まだ22歳というだけあって、
いわゆる「夢二式」美人のスタイルは確立されていないようです。
さて、別の記者による記事に対して、
夢二がカットや挿絵を担当することもあったそうですが。
デザイナーやイラストレーターではなく、
夢二はあくまで記者として入社したそうで、
実際に現場に行って、多くの取材をこなしました。
裁判所に赴き、取材したことも。
まさか、夢二による法廷画があったとは。
意外な事実に、新鮮な驚きがありました。
また、上野公園で行われた東京勧業博覧会も取材していたようで。
その際のスケッチも数多く紹介されています。
特徴的だったのは、家族連れを描いたり、
突然の雨に降られた人々の様子を描いていたり、
と、肝心の博覧会の内容をほとんど描いていないこと。
いや、博覧会わい!
自分が当時の読売新聞の読者なら、そうツッコんでいたと思います。
ちなみに。
東京勧業博覧会の目玉の一つであった船すべり、
不忍池でのウォーターシュートは、ちゃんと描かれていました。
実は、夢二はこのウォーターシュートが大のお気に入りだったようで。
記者特権でゲットしたプレスパスをフルに活用し、
博覧会の期間中、朝も晩もウォーターシュートに乗っていたようです。
もし、夢二が長生きしていたら、遊園地マニアになっていたかもしれません。
他にも夢二は、足尾銅山事件を取材したり、
房総から松島までを取材旅行し、紀行文を記事にしたり。
読売新聞の一記者として働きました。
しかし、入社からわずか5か月ほど。
9月19日に掲載されたこの記事を最後に、
夢二が担当した記事は存在していないようです。
どうやら夢二は9月中に退社した模様。
夢二の元妻である岸他万喜直筆の回想文に、その理由が掲載されていました。
主任とケンカをした。
それが夢二が読売新聞を退社した理由だったようです。
歴史にifはないですが、もし、主任とケンカしていなかったら、
読売新聞で働き続けて、立派な新聞記者になっていたかもしれません。
そうしたら、画家・竹久夢二は誕生していなかったかも。
そういう意味では、主任に感謝です(←?)。
さて、思いのほか早く、夢二が読売新聞を退社。
展覧会場はまだあと半分ほど残っています。
他には、何を展示するのでしょう??
と思ったら、展覧会の後半では、
夢二は取材する側から、取材される側へ、
夢二に関する読売新聞の記事が紹介されていました。
それらの中には、こんな記事も。
今では考えられませんが、かつて読売新聞には、
文春のごとく、「ゴシップ」というコーナーがあったそうです。
夢二もそんな読売砲(?)をくらっており、
小説家の山田順子との不倫を報じられていました。
なお、この不倫が原因で、夢二は岸他万喜と離婚したそうです。
また、展覧会では夢二の読売新聞での仕事も紹介。
夢二が挿絵を担当した新聞小説や、
夢二が寄稿した記事なども紹介されています。
竹久夢二と読売新聞。
記者時代を含めて、両者には実に深い関りがあったのですね。
夢二のニッチな部分を掘りに掘り下げた展覧会。
竹久夢二美術館ならではの展覧会でした。

約5か月で夢二が退社したかと思えば、
読売新聞に不倫ゴシップをすっぱ抜かれたり。
いろいろありながらも関係を保ってきた夢二と読売新聞。
・・・・・がしかし、それなのに!
晩年近くには、こんな記事が掲載されていました。
竹久夢二はどこへ行った?
まるで「あの人は今」状態。
完全にオワコン扱いです。
さらに衝撃だったのは、夢二のおくやみ記事。
その文面には、「時代の推移と共に凋落」とか、
「晩年は子供とも離れるなど淋しいものであった」とか、
わざわざ訃報で言うことでないだろ、というものが書かれています。
しかも、享年57とありますが、
正しくは、夢二の享年51歳(没年は49歳)とのこと。
この記事を書いた記者は、夢二に一過言あったのでしょう。
もしや、あの時の主任??















