卑弥呼と会津<16>
「父の名は よし立てずとも 君がため いさをあらわせ 九重のうち」
会津で「九重」といえば、塩川町の九重奈良屋の飲料菓子「ここのへ」ですので、初めてこの歌を読んだ時には意味が見えずに困惑してしまいました。
百人一首でカルタ取り遊びをしていたことがある人なら、普通に分かることなのだろうけれども、残念ながらそうは行かず、いろいろ調べてようやく「九重」が朝廷のある「みやこ」を意味する言葉なのだということが分かったのです。
A I(google AI)には、戦国時代の詩人・屈原による<天問(Wiki)>には「寰(かん)の九重、焉(いづ)くんぞこれを営度(えいど)せん(天が九重であるというが、誰がこれを測り計画したのか)」という一節があり、天の広大さや神秘を象徴する言葉として使われています。」と出てきました。ここでは、「きゅうちょう」と読むようです。
これが、我が国に入ってきて、「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」<百人一首・伊勢大輔>となり、「みやこ」すなわち[京都]となります。
「営度」には、とても思い当たることがあって、曽祖父が鶴ヶ城の堀端に出て、何やら手に道具を持ちながら「測っていた」情景を、母が人伝てに聞いて、教えてくれたことがあったのですが、どうやらそれこそが「営度」だということを、初めて知りました。戦を行う者の身に付けて置かなければならない知識だったのですね。
そんな新たな発見があった「九重」ではあったのだけれど、もしもこの返歌で、容保が京都守護職の就任を決心したとしたのなら、なんとも言い難い問題を孕んでしまった歌ということになります。
もちろん「君」は、「容保」ではないはずですが、親の気持ちとしてはそうとも取れます。すでに藩主ではあるから「君」と呼ばれてもおかしくはない地位にはいるが(なって9年は経つ)、まだ「名君」にはなっていないが。左近衛権中将(会津中将)にはなっていたと思われる。幕閣には入ったことになっています。
その意味では(なってしまったからには)、大役が待っているという、なんとも底知れぬ仕掛けがあったというべきなのかもしれません。そのときはまだ、敏姫が亡くなる年です。翌年には後妻を娶っています。
敏姫が生まれたにせよ、容敬は照姫と容保とは結婚させるべきだったと思われます。それは、正之が高遠・保科に迎え入れられた際の、保科正光の決断を参考にすれば自ずと明らかです。彼には実子(長男)が先にいたのです。彼にとっての「公」それは、「藩」であり「将軍」であったでしょう。その前に「保科」だったと思います。
それをわきまえていたからこそ、彼・容敬は照姫を養女に迎え入れていたはずです。すでに、彼は家臣にはそう命じていたかもしれません。反対もあったと思います。ここがミッシングリンクではあるのです。敏姫と容保の結婚がいつなのか、明確な史料がまだありません。確実なのは、容敬の死と敏姫と容保との結婚がすでに事実になってしまっていることです。
この歌では、一応「父」という私的な立場と「君」という公的な立場を対比させているのではないか、そう問われれば、答えは自ずと決まってきます、「公」を優先と。ただ、容保には、「公」は「藩」ではなく「公儀」すなわち「幕府」に移ってしまっていたのではないでしょうか。松平春嶽の「指摘」は、補強的な言い訳に過ぎないと思えてきます。「名誉」は私的なもの、受けるか受けないかは、難問ですが、年齢というものもあるでしょう。
ただ、幕閣の平均年齢からすると慶喜も容保も相当に若いと言わざるを得ませせん。24〜25才と26〜27才です。どちらも火をつけられ易い年齢です。
ということからすると、この歌は、まさに「火に油」であり、悪い予感のするものになってしまっていたのではないかと思えるのです。
「お前のやりたいのは分かっている、やりたいようにやりなさい」
聞くべきは、「保科」の声だったのでは、内藤、西郷いずれも「保科」です。
正之にとって、会津藩は「保科藩」だったと思います。それが「公」の立て方でした。それが、最優先事項でした。
世継ぎで大騒ぎしていた「容敬」です。その理由を「血」に見出し「照姫」になったのです。
「照姫」は、分かっていたと思います。

