卑弥呼と会津<15>

 

 ま、N H K BS で再放送中の「八重の桜」があるけれど、まだ「容保」と「照」姫という二人の人物像がなかなかつかめないままの状態が続いている。

 先に、「会津家訓」を取り上げて、「大君」を「天皇」と解釈した経緯を述べてはいたけれど、図書館から借り出した本の中に、「容保」の和歌を見つけた。

 「行くも憂し 止まるもつらし 如何にせんむ 君と父とを 思うこころを

 という、実父にあてた歌だ。

 率直に「君と父」とが分からない。「父」に二人の父が懸かっていることは分かる。実父・義建(よしたつ) 養父・容敬(かたたか)なのだろう。この時すでに養父の容敬は亡くなっている。

 言葉の上とは言へ、やはり「」と「父」とを同じ歌の「ことのは」にあげるのには、いささか疑問が残る。そこには、幕府から内命を受けたことへのある高揚感(グレイス感?)もあり、気にはなる。

 この歌の背景には、「京都守護職」への内命(就任要請)がある。当時幕府の三要職の特別職であり、まだ将軍家茂は将軍になって4年目の17歳くらい。その将軍後見職に就いたのが一橋慶喜、26歳。ほぼ容保とは同年齢。幕府官僚の思惑は、どこかの国の官僚たちとそっくりで、国内というより対外外交に専念中。それ故の、二次問題を若手藩主の担ぎ出しとなったのだろう。

 慶喜も容保も、「自己保身」集団にまんまと乗せられているような情景しか浮かんでこない。格好がいい(カッコいい)のは、外交問題、猫も杓子も「攘夷」なのだ。京都が騒乱の場になるのは、まさに「天皇」が「大君」であり、国家そのものだから。「将軍」如きが代われるものではない。まして、士(さむらい)如きが、タッチできるわけではない。

 それに気付いていたのが、「正之」であり、「素行」であったと言える。

 「素行」といえば、吉田松陰、赤穂浪士の「山鹿流」だ。

 この素行は、小さい時から母代わりの女性、それも家光のアドバイザー役までやった「優婆夷(うばい)」そして禅宗の尼僧にまでなった人物に育てられている。

 容保の母の代わりは、と思っても彼が高須藩を離れ、会津に養子に入ったのは10歳頃で、その時にはすでに「照」姫がいた。3〜4歳年上だったから、いくら「男女七歳にして席を同じゅうせず」とはいえ、多くのことを彼女からは学んだと言われている。

 「姉」を持ったことがないので分からないが、年の差もあるだろうけれど、弟にとってみれば、姉は母であり友人であり恋人なのかもしれない。

 そうした姉を持つ男が、新たに養父によって生まれた義理の妹と結婚しなければならなくなるとは、これはもう、お家断絶に瀕(ひん)した会津藩の救済という意味しかない。その危機を逃れるための養子であり養女を迎え入れたのだから、本来は「保科」氏との明確な縁組みを考えた上での配慮であり、初代藩主の思いこそ、遂げてみたかったような、そんな願いが養父の容敬にあったことは、容保も「照」も十二分に知っていたに違いない。特に、「照」はその思いを使命(ミッション)とも自らの存在理由とも思っていたのではないだろうか。

  その容保に対しての実父義建の返歌がこれ。

 「父の名は よし立てずとも 君がため いさをあらわせ 九重のうち

 戊辰の悲劇は、こどうやらこの「」の読み違いにあるような気がしてならない。