卑弥呼と会津<11>

 

   この頃はすでに、一定の人数を運ぶ船は帆船が主流だったと思われる。それでなければ、ローリングだけで,黒潮や対馬海流に対処することは極めて困難だったと見えるからだ。それこそ、秦の時代には、「斉」国は、海洋(黄海)を横行する船の産出(造船)地域であったから、すでにそれから四世紀を経ていたこの時代には、より進んだ船舶が航行していたと考えるのが自然なのだと思う。

 7年前に、国立科学博物館が行った、3万年前の、台湾から与那国島までの丸木舟による渡航の再現実験があった。女性1名を含む5名の漕ぎ手による約111海里(205km)を46時間かけて渡り切った実験だった。ほぼ二日間を要したことになる。

  単純に、1時間当たり4.4kmの速さで漕ぎ進んだことになるのだが、これには深く潮流のスピードが関係していて、台湾から沖縄方面へと流れる黒潮のスピードはおよそ2ノット(3.7km)なので、漕ぎ手が関与して加速できたのは0.4ノット(700m)程度だったことになる。

 どれくらいの労力が必要となるのかは分からないが、昼夜通して、休みなく二日間漕ぎ続けることは不可能であろうから、丸木舟と五名という人数は、天候に恵まれていても、欠かせない条件であった、ということになるのだろう。

 

 しかし、これを朝鮮半島から対馬に当てはめて、同様の結果を期待することはできない。なぜなら、対馬を通る海流(対馬海流)は、巡航を妨げる流れとなるからだ。この海流の速さは同じく1〜2ノットとなり、その流れを横切る労力が必要になる。目の前に川が流れているのを見ながら対岸に渡ることと同じだから、逆流とはならぬまでも、一定人数を乗せた船で漕ぎ渡ることは至難の技といえるだろう。まして半島・対馬間50kmの<(?)幅>だ。 

 アインシュタインを思い出すまでもない、流れの上に船は浮かんでいるのだから、それは相対的なもので、効率よく渡り切るにはどうしても、人力以外の動力が必要だし、それは「風力」しかないことは、すでに分かりきったことだったはず。潮流に対抗できる力は、風しかなかったし、またそれを操るすべも、その頃には十分発達していたと想定する方が自然だ。

 

    

  海上保安庁海洋情報部 より

 

      新たな動力(火力+水=蒸気)を見出したのは18世紀であり、船舶に利用できたのは19世紀に入ってまもなくだったから、今日まで、まだ200年ほどしか経っていないことになる。ついこの間までは、「神頼み」ならぬ「風頼み」の船舶だった。

 だから、と、つい先走って見たくなるのだが、「倭人伝」に書かれている「距離」すなわち「千余里」も、地上の発想から導き出された距離であるよりむしろ、「天」に倣って導き出されていた「距離」ではなかったかと思う。つまり、陸上空間は二次空間(図)に落とし込めるが、海上空間は、そこに落とし込めない三次元空間のまま、ということになる。昼は太陽の位置、夜は星の位置によって、時間に合わせて距離を特定する、そのような方法を相当に高度な知識として、操船を担う船乗り人は持っていたように思わざるを得ない。「遠距離」の方が何故か精度が高い、そんな印象が強い。それをそのまま投影したのが、遠藤君のいう「混一疆理歴代国都之図」の「南」重視の作図感覚ではなかったのか。

 なるほど、平面の地図上では「南」は、<足下>になるけれども、実際には、足の下は常に土の上にあって「南」は常に頭上にある。夏至の太陽の「南中時」は、それをよく表している。

 大和岩雄は述べていた、「倭人の自然観には、当時『高さ』という観念がなかった」と。おそらく、人は、球体の中に立っていて、陸、海、空、と足下から全て、平面で繋がっているものと捉えていた、のだろう。

 これはトポロジカルな発想だといえるし、今では、「高天原」よりこちらの方がより科学的なのかもしれない。