卑弥呼と会津<8>
海の民にとって、山はとても大きな目印であったと思う。しかし山がなくても距離を知ることはできた。
「興梠」(こおろぎ)という珍しい名を持つ人に出会って、沖縄での不思議な体験を聞いたことがある。もう半世紀にもなろうという昔の話なのだが。
西表島から多良間島(おそらく)に向けて、舟を出してもらった時のことを話してくれた。舟が出てしばらく経った時、ふと気がついたら、見えるのは海と空だけで、方向が全くつかめなくなってしまっていたという。島影など、どこにも見えないから、思わず尋ねてみたそうだ、どこに向かっているのかと。もちろん島(多良間)だと、返事は帰ってくる。「見えません」、とでも答えたのだろう、笑いながら言葉は返ってきた、「空を見てれば分かる、ずっとそうしてきている」と。
太陽が空に輝いているのさえ見えれば、行き先は自ずと見えてくる、そんな方向感覚や距離感覚を持った人々がいる。「千余里」とか「七千余里」とか、それはもはや、彼ら、海の民にとっては距離ではない。海の匂いもなければ、肌を焼くほどの日光の厳しさでもない、オールを漕ぐ汗の多さでもない、ただの「言葉」に過ぎない。
もっと直感的な言葉があったはずだ、海の民同士でなければ通じないような言葉がきっとあったはずなのだ。
彼、遠藤君は磐梯山の麓の町で育ち、大学は山形大だったから、おそらくは海とは縁遠い育ちであったと思われる。
会津地方の山奥の小学校の修学旅行生が、猪苗代湖を見て「これは海よりでっけえ」と言ったというまことしやかな、田舎者がさらに田舎者を貶めるような逸話があるけれども、陸上と海上との「間隔」に対しての認識はそれほどに異なっている。「文献」や「地図帳」では決してつかみきれない「感覚」がそこには残っている。
そうした感性の差をのり超えてなお、「邪馬台国は山だ、耶麻郡だ」と、時には海の民となり、山の民となって、彼は案内する。



