卑弥呼と会津<7>
<紫姫>さんから、遠藤君の「会津と邪馬台国」と題する講演会の録画ビデがYouTubeで公開されていることを知らせて頂いていた。ありがとうございます。2005年に、会津の柳津町にある「花ホテル」で開かれたものだ。
プレゼン用に、何枚ものケント紙に膨大な情報を書き込んでは、これでもかと説明する彼の姿には、「まいった」という他ない。
それだけに、この「卑弥呼と会津」はその後追い版ではあったのだが、少し様子が変わってしまった。
今日、「信毎」(信濃毎日新聞)から連絡があった。
「戊辰はるか」を検討してくれるらしい。もっとも、まだここだけの話ではあるけれど、仮題を決めているだけで、ほとんどは白紙。もちろん「容保と照」の第一子について、ではあるけれども、ノベルかドキュメントか、ここはやはり後者だとは思っている。ともかくも、書かざるをえなくなる動機付けには、なってしまった。まだ構想も固まっているわけでもないが、例年4月29日に高遠歴史博物館で開かれる「正之祭」には間に合わせてみたいと思っている。これまで、このブログを借りて、様々なアドバイスを頂いていてきていたから、これを無駄にはしたくない、それを是非とも反映したいと思っている。
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そして<6>の続き。
対馬は、猪で悩み、伊豆は竹で悩んでいた。もうずいぶん昔(四半世紀前)のことになるけれど、現在もまだそれらの悩みは尽きてはいないようだ。
卑弥呼の時代はどうだったのだろうか、遠藤君の『耶麻郡・邪馬台国』を読む度に、「狗邪韓国」から「対海国」(対馬)までの距離『千余里』が気になって仕方がない。現代のそれはほぼ50kmなので、どうしても『倭人伝』が、一里の間隔を、場所によって変えているようには思えないからなのだ。
「従郡至倭」(帯方郡より倭に至る)として、「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里」(海岸沿いに船で韓国を南に行き東に行きながらに辿りつくとこころが北岸にある狗邪韓國で、そこまでがほぼ七千里あまりになる)としていて、350キロメートルほどになるから、Google Earthで確認しても、ほぼ合っはている。
末盧国に関しては、「草木茂盛」や「好捕魚鰒」が気になってしまうのだが、今日『 登望駅 』(図4)は、唐津市呼子(よぶこ)町小友付近に比定されていて、この「登望駅」の東側、『大友の海岸』にある大友遺跡の砂丘の下からは、弥生時代の人骨150体ほどが発見された(1999〜2000年 5、6次調査)。縄文晩期から古墳時代にかけての大規模な遺跡であり、『倭人伝』にある「四千余戸」はそれを反映している。大友の弥生人は漁労民だったことも窺える(遺骨形質)。
ようやく九州にたどり着いて、陸上での距離感覚が通用しなくなったような状態をもとに、彼の著書では「中里」とか「短里」とかの新たな用語が用いれられることになるのだが、まだ距離に関しては、「海の民」の感覚の方を信じていたくなる。少なくとも、「佐賀県」から「福岡県」までは玄界灘に面した臨海地帯ということになり、両県の県境にそびえる最も高い山脊振山(せふりさん)を起点に据えれば、おおよその距離は「海の民」には、海から見ても、あるいは山の頂上から見渡しても、歩いて測るようなことはせずとも、地域間の距離はほぼ正確に指摘することは容易にできていたように思われるからなのだ。




