卑弥呼と会津<4>

 

 遠藤君が参照している「混一疆理歴代国都之図」なのですが、これは彼が述べるように、一四〇八年に描かれたものであるとするなら、どうしても腑に落ちない疑問が持ち上がってきます。

 この地図が描かれる百年以上前には、日本の鎌倉時代に「元寇の役」が起こっていたことです。一二七四年の<文永の役>と一二八一年の<弘安の役>の二度に渡る元(蒙古)と高麗(朝鮮)とによる日本侵略事件(戦争)があったことが、全く反映されていない地図としか見えません。

 もし、地図を正しく描けば、元軍が対馬においても、壱岐においても住民に対して残虐な行為を行っていたその無謀な戦争行為を、思い出させてしまうことは必定だったから、あえて元の地図を参考に、このように描かざるを得なかったと思わざるを得ません。

 現在では、この地図はモンゴル帝国を現したものと言われていて、しかもこの地図は「民生用」(民間向け)で、本来のものは、緻密な地理情報を記したものであったとされています。

 

 倭国は北と南が逆になっていた。

 

『倭人伝』は、陳寿によって編纂された。その成立は、三世紀の太康年間( 二八〇〜二八九年)とされている。強調したいのは、書いたのは日本人ではなく中国人だということである。とすると、中国人が魏の人が倭国を当時、地理的にどのように見ていたのか?地図で倭国はどんな風に表されていたのか。そのことを第一に最高の関心を払ってもいいはずだ。払ってもいいのではなく、払わなければならないと筆者は思った。

 現代の日本で使用されている、正しい日本が描かれた地図を、当時も使っていた(そう考えても別に不思議ではないわけであるが)。ひょっとして万が一、違う地図を使っていたのではないか?万が一、異なっていれば、どうなるか?

 ところで地図の構成要素には、方角と距離、高さと深さ(海・湖沼の場合)があるが、方角も距離も、それぞれ違えば別な場所を指し示すことになる。そのように進めば、別な場所に着いてしまうのは、火を見るより明らかだと思う。具体的に言えば『倭人伝』が本来伝えようとした邪馬台国でないところに、邪馬台国ができ上がってしまうわけである偽りの邪馬台国が発生する。

 本当にそうなのかどうか? 魏の人が使っていた地図を確かめなかればならない。あるならば、中国人が使った古代の日本列島が描かれた地図が、邪馬台国研究のために使用されなければならない。万が一、それがまちがった内容の日本を示す地図であっても……。

現実として、歴史として、そういう地図を中国人が使っていたということが客観、つまり正しい事実であるから、ここに重きを置かなければならないことは、理解していただけると思う。

 [探してみるとありました]

 「混一疆理歴代国都之図」が、それである(まえがき・中扉参照)

 中国の明代の一四〇二年に描かれた地図である。その範囲は日本以外にも、朝鮮半島や中国大陸が含まれて描かれている。

 さてこの地図がいま話題にしている三世紀の『倭人伝』の魏の時代に使われていた地図とその内容が同じなのか? 異なるのか? はたしてその地図で、卑弥呼の住む邪馬台国を特定できるのか? 筆者もわかりません。だが、はっきりしていることは、地図が作られた一四〇二年頃まで、中国では日本列島をそのように見ていた、認識していたということである(注意点)後世の明代に、間違っていたことになるわけであるから、すると、いつからそうなったのかはよくはわかりませんが、ずっと昔の魏の時代から、間違ったままの地図を引き継いできたことになる。もしも気がついていれば、途中の時代で訂正できるわけである。魏の時代からこの地図の明代まで、千余年も時の流れがあったからである。    

この地図は、見ていただくと分かるが、方角が、九州地方が北で、南に東北地方があるというように、現代の一般常識からすると、全体が反対に位置しているのが非常に著しい特徴である。それを除けばほぼ正しいと思う。ただし、部分的には四国地方はかなりずれたいちに、北海道はない、と筆者には見える。この語の説明にも関係するので、現代の地域を(図2A)のように推定する。もちろん『倭人伝』で使った魏の地図は、明代の地図とそっくりそのまま同じではないとしても、このような地図を使っていたと判断してもよろしいと思う。

 何故、こんな間違った地図になったのだろうかと、疑問をもたれる方もおられると思う。

 確かに、古代中国(紀元前一六八年頃以前ー魏の三百年も前に相当する)の長沙馬王堆三号漢墓(湖南省長沙市)、そこから出土した古地図は、中国を正確に描いているではないか。中国人には正確な地図を作る能力や技術があったのではないか。という疑問は、もっともである。この反論は後述しますので、話を先に進める。

 (ここで遠藤君がいう中国地図は、1973年に出土した2枚の地図を指していて、一枚は地形図でありもう一枚は「駐軍地図」と呼ばれるもので、いずれも絹布に描かれている

 

 以下は「混一疆理歴代国都之図」より