卑弥呼と会津<3>

 ※ 文中では<邪馬国>と通称<邪馬国>とを双方使用していますが、原文(倭人伝)に依る場合は<邪馬国>を用いています。

 

『倭人伝』には読み方がある

 

 まず最初に、場所の特定――邪馬台国はどこなのか?――を文献学的に説明したい。といっても、途中に考古学的研究成果を使った説明が顔を出してくるかもしれないことを了承していただきたい。日進月歩の科学の進歩は、考古学の世界においても例外ではないと思えるからである。

 

 『倭人伝』には、(朝鮮半島の帯方)郡から倭国に至るには、海岸に沿って水行し韓国を経て、あるいは南行し、あるいは東行して七千余里で狗邪韓国に至る。それは倭から見て北岸になる………。

 これに続く『倭人伝』の記述は、もう十分に知っている、退屈だといわれる方も多いでしょうが、極めて大事なことなので。また、初めて深い関心を邪馬台国にもたれる方のためにも、内容を簡潔に説明しながら話を進めていきます。(以下、主に進路の方角と距離については、表1にまとめました)

(続いて)さらに海を渡り千余里で対馬国に至る。また南に一海を渡り、千余里で一大国に至る。また一海を渡り千余里で末盧国に至る。

 

(上陸して)草木が茂り盛え、行くに前の人を見ない(状態)で、東南に陸行すること五百里で伊都国に至る。(更に)東南に行って奴国に至る。その距離は百里。(そこから)東行して百里で不弥(ふみ)国に至る………。

 (気がつかれたことと思うが、ここまでは距離を示すのを里数で表している。確かに当たり前のことであるが、しかしこれから先は、日数に変わっていることに留意しておいてください)

(不弥国から)南行して投馬(つま)国に至るのに水行で二十かかる。(さらに)南行して邪馬国に至る。女王の都する所で、水行十、陸行一である………。

(帯方)郡から女王国に至るのに一万二千里ある。

以上が邪馬台国への進行方向と距離の内容である。

  

  (2)中国の歴史書だから、中国の地図で解釈しよう混一

               疆 理歴代国都之図)

  

   ※   当時、遠藤君が取り上げたウィキペディアの図は<龍谷大学 所蔵>

       のものと思われるので、正しくは「中国の地図」とは言えず李氏朝鮮の

         ものというのが正しいでしょう。中国の元図に<朝鮮半島>と<倭国>

        を加えたものがこの図の成り立ちと思われます。

 

            次に、彼は中国(古代)と日本(古代)の方角の優劣については、言

         及はしていないけれども、基本的には、まさに180度の差がありました。

           <指南>という言葉が表しているように、中国では、方位としては常に

        <>を尊重することを求められていました。(周易(易経)には「離」

         について「離也者明也。…聖人南面而聽天下。嚮明而治」とあり、<

          人は南面して政務を取る>という意味の言葉があります。

             日本の古い社は<北面>しています。