戊辰はるか<1>

 

 

「会津嶺」がこの3月号で休刊です。このことを知らされたのは今年に入ってからで、2月号には「会津藩家訓」そして、次の号においてはその関連で「孝明天皇」から「松平容保」に与えられた「御宸翰」について書こうとしていました。

 しかし、休刊の知らせを受けてしまったので、あえて3月号のタイトルを「戊辰はるか」としたのです。

 その理由は、昨年7月からこのブログで始めた「DNAで分かるまで」が、「松本」という我が姓に係る疑問を明らかにしておきたいという、焦燥、とまでは行かなくとも、義務感のようなものに抗しきれずに始めたものであり、結局は遺伝子で調べなければ証明はできないが、という留保条件がつくものの、もはや自分以外には「なぜ」を語るものはいないことが分かってしまったからで、「戊辰」はその解明の原点となり得ると思えたからに他なりません。

 

 ほぼ半年をかけて、かなりの疑問が解けていきました。それには、このブログを読んで下さり、その度に適切なコメントを頂けたことが大きな助けになったことは、言を待ちません。

 

 3月号の末尾には「彼は、父・容保(松平・徳川)、そして母・(照・保科)二人の第一子、であることを。」と書きました。

 

 この記事には、かつてN H Kで放映された「八重の桜」のヒロインを演じた綾瀬はるかのポスターの模写絵を載せました。二昔ほど前にT Vで放映されていた「鹿男青によし」(原作 万城目 学 2007年刊 2008年放送)からのファンではあったので「遥」(はるか)に懸けてみたのです。

    

     

              画(模写) 宮原 正則

 

  

 昨年末に、「柿本」の意味を模索していて、ようやくたどり着いた糸口のようなものが見え始め、明治から始まった「松本」の前の世代につないでみようとの決心ができました、

 

 そうした経緯もあって、今回は「御宸翰」(ごしんかん)について触れようと思うのです。

 

 松平春嶽から京都守護職就任要請を受け、断りきれなかった理由、それが会津藩の家訓(かきん)にあったことはよく知られています。家訓第一の件(くだり)すなわち「一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処(お)るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」です。

 

 多くの人、特に会津藩の家臣は「大君」を徳川家康と思っていましたが、果たして松平容保自身はどう思っていたのか、それがとても重大な意味を持っていたのではないでしょうか。藩主としての立場では、家臣と同じ訓示として受け止めるべきなのか、そこが極めて重要なポイントであったように思えるのです。

 松平春嶽には、そこを見抜かれてしまったのではないか、「藩主の立場」、そしてその子孫(徳川一統)としての、「本来の面目」を指摘されたのだと思わなければ、答えにはならないでしょう。

 

 春嶽はとても聡明な人であり、福井藩藩主になった経緯(いきさつ)も容保と似たところのある人物で、その彼だからこそ会津家訓の真の意味を容保は突かれてしまったのだと思えるのです。

 

 春嶽はペリー来航以来、藩政改革を行い、軍制すら洋式に変えてしまったほどでしたから、余程の慧眼ぶりで、当時の江戸幕府諸藩には、会津藩家訓を見習えとまで言い出しそうな、状況分析をしていたのではないでしょうか。

 それは「家訓」を定めた保科正之と同等の見識に立てたと言えるほどのもので、まさに「将軍」の立場で「列国」を解し得る数少ない会津藩と「同胞」たり得る藩主ではなかったかと思えてくるのです。

 

 会津藩にとっては疫病神、そう思われているのかもしれませんが、保科正之が幕藩政治のかなめを担ったように、春嶽は容保に同じことを担わせようとしたのだと思うのです。まさに大役でした。ただ、春嶽が望んだように、もう一歩先の「何か」を担えたかどうかは、何とも言えません。

 

 「大政奉還」は、会津藩にとっては、もはや「試金石」と「踏み絵」とか言えるものではなく、会津藩そのもの幕府そのものの存在を否定することに直結したものであったように思えるのです。「大君」を「神君家康公」という立場に立てば、キリスト教徒がキリストを否定するのと同じ「告白」(コンフェッション)になってしまうからです。大罪です。

 

 しかし、大君が「天皇」であったとしたら、容保と会津藩士は別の意味で、「大政奉還」をしてはならない立場に立たなければなりませんでした。

 

 「大政」こそが、会津藩士にとっては「忠勤」そのものであり、「奉還」などはもっての外、(まつりごと)そのものが忠勤の対象でなければならなかったはずなのです。

 「天皇」に尽くすことではありません。「天皇」から任された任務(治世)を第一義に考え行動せよということです。天皇の意に沿うことではないのです。

 

 その意味で、容保が孝明天皇から御宸翰(直筆の手紙)と御製(ぎょせい 天皇自身が歌われた和歌)を頂いたことは、それこそ初代の会津藩主保科正之から言葉をもらったことと同じ重みを持っていました。

 おそらくは徳川将軍家の誰一人として、天皇より直に言葉を頂けた人はいなかったはずです。それほど重大な事件と言っていいほどのものでした。

 京都守護職という立場に関係なく、幕閣にとっては、直ちに<将軍>あるいは<副将軍>にしなければならないぐらいの大事件であったろうと思えるのですが、残念ながらその痕跡を見つけ出すことは困難です。

 

 それが誰にもが知るような事件になっていたなら、明らかに情勢は会津藩や容保、そして孝明天皇自身にとって有利に動いたのでは、と思われてなりません。それこそが、春嶽が狙ったその先の一手すなわち「奇跡」だったことなのかもしれません。

 

 当然それは容保も自覚ができていたと思いますが、それを敢えて公言、あるいは「政治案件」にしなかったところが、容保の容保たる由縁だったとも言えそうです。

 

 

今日は3月1日なので、<1>としたかったのです。