D N Aで分かるまで。<50>
なんとか<50>にまで、漕ぎ着けることができた。来月には持ち越したくはなかっただけなのだけれども、かといって、<51>からの不安がないわけではない。ともあれ、三島町「荒屋敷遺跡」から出土した「遠賀川式土器」を追ってみたいと思う。
門田条里制跡発掘調査報告書(会津建設事務所 会津若松市教育委員会 1990年刊)
上図で薄青色のエリアが、<条里制>の調査対象となったエリアだが、やはり薄黄色のエリアは、「鶴ヶ城」である。この条里制エリアに関連する遺跡ポイントが数字で示されている。その表を上げる。
上記報告書より
No.3の「若松城三の丸跡」とされる部分は、現在は県立博物館であり、ここからの発掘調査による出土物は、その建設に関わる事前調査の際に見出されたものであることが分かる。
あらためて驚かされるのは、ここがしっかりと縄文時代から今日まで人々が暮らして続けてきた場所だと言えることで、三島町の縄文遺跡から弥生時代の「遠賀川式土器」が出土していても、何ら奇異には思えない、ということになってしまっているという点だろう。
「縄文都市」と呼んでもおかしくはない程度に「縄文」そして「弥生」までもが密集している。
条里制は一般的な理解では、いまでいう農地の「区画整理」のようなものと理解されているけれども、そうすると、それに伴う<郡衙>がなければならないことになるのだが、先の「秦人」の墨書土器が出土した時代が平安時代であり、郡衙とされる位置とここ<条里制>にあたる位置とが合致しないことになる。
「条里制」が敷かれた、と目されてはいるが、もう一つの可能性である「条坊制」の視点を持つことはできないものだろうか。
古代<都>には欠かせない区割りで、「環濠集落」、例えば「唐古・鍵遺跡」より以前にあった、自然の地形を活用して一定の治安秩序のもとに形成された集落のようなものではなかったのか、そんな思いを強くするのだが。
「鶴ヶ城」が、いつからそのように呼ばれるようになったのか、ずっと疑問に思っているけれども、いつも返される答は「蒲生氏郷」の幼名に由来するというもの。しかし、氏郷が名付けたのは若松城であって、自らの幼名をそれに充てるとはとても思えない。
どうしてなのかはわからないが、先の大戦の後解体された城近く(市立第二中学校)辺りにあった陸軍営舎跡地が、「鶴が丘」とされたことがあった。いまでは鶴ケ岡となっている。お城のある丘陵一帯が、「鶴ケ丘」と呼ばれていたことがあったとも考えられる。
しかし、もうひとつ考える余地がある。それは「ツル」と「ハタ」の関係だ。
ここ会津若松市には「蚕養国」神社がある。その由緒を尋ねると、あの<山城国>の秦氏(伏見稲荷神社)よりも早くに「機織り」によって、ひとつの国を形成し、それを象徴する神社を奉斎するほどまでに興隆していたというその国の王が住んでいた<王宮>あるいはその<王墓>では、との考えも浮かんでくる。
いまでこそ猪苗代湖に飛来する鳥は、白鳥しか思い浮かばないが、温暖な気候であった時代には、きっと多くの鶴がここ会津に飛来してきていたに違いない。
そして、その中には富士山の麓で倒れ「鶴」となった「徐福」が混じっていたかもしれない。
KIM HEKYON


