D N Aで分かるまで。<47>
45年以上もの間、毎月発行されていた「会津嶺」というタウン誌が来月号をもって休刊になります。そのため、一昨年から寄稿していた我が記事も続けることができなくなってしまいました。
もとより、慶徳稲荷神社(喜多方市)の氏子さんからの依頼で書き始めたものだったのですが、原稿料の代わりに「世界複合遺産」についても、書かせてもらうことを条件に受けてしまったのです。久しぶりの経験でした。創刊当時から何度か寄稿した覚えがあり、不思議さを感じます。
ただ、世界複合遺産登録への貢献は、全くというほどありませんでした。
しかし、個人的なことながら、ずっと懸案事項だったことに、着手するためのとても良い道筋を与えてくれたと思っています。三月号ではそのことに触れています。このブログを借りて、探し求めてきたことでもあります。
このブログを<50>までにして、次<51>からはそのことに専念してみたいと今思っています。
ともあれ通算22号目が、とりあえず最終号ということになります。
第1号目にあたる一昨年の6月号の記事の写真をどうしようかと悩んだ際、昔、中国で「国際徐福フォーラム」があった際に撮った写真を使いました。神社に関する手持ちの写真がなかったからです。
「祭天儀式」と名付けられたイベントの様子を撮ったものでしたが、おそらくは「封禅の儀式」を模したものであったろうと思われます。
北緯37度30分、始皇帝が持っていたとされる携帯用の日時計、そんなものが見つかればという思いで参加した「フォーラム」でしたが、成果を挙げることはできませんでした。
ただ、道元禅師が学んだ、あるいは悟りを開いた「天童寺」に行くことができ、さらには「梁国」の皇帝であった「蕭衍」の木版を見ることができたのは大きな収穫でした。
「高寺」伝説を史実とするには欠かせない国が「梁国」だと思っているからです。
不思議なもので、いま「徐福」がちらりと障子戸の隙間から顔を出したような気がした、というのも冗談ですが、「りまりま」さんと「紫姫」さんを思い出しました。それも、昨年7月のお二人のブログで見つけた、「三島」と「秦人」を思い出したのです。
建設中 徐福東渡像 確かに東を望んでいます。
あまり「ヰ」に拘泥するのも、との思いを巡らしている時に「鶴ヶ城」と「門田条里制」との関連が気になり出し始めました。
門田条里制には、「宮城」が欠かせないと思っているからで、この「門田条里制跡」は、「黒川城」よりずっと前の地下に埋れているかもしれない「宮城」に付随する「古代都市」のための「条里」なのでは、と想像してみたのです。
簡単な情報収集ではあったのですが、この条里制がいつ頃敷かれたのかについては、「平安」(会津若松市)という認識がなされており、こちらの思いとは程遠く、では、と今度は「遠賀川式土器」に注目してみたのです。こちらは、弥生式土器そのものでもあり、年代を求めるのに便利と感じたからに他なりません。
とても面白かった。東北にはなかったはずの土器が、とっくに青森県三戸郡の剣吉荒町遺跡で出土していた(1981年)のです。
遠賀川系土器((剣吉荒町遺跡) 青森県立郷土館H P より 転載
それじゃあ、と会津若松市の文化課と県立博物館に問い合わせてみました。大変なことになってしまった。全くの想定外でした。お二人にはぜひ伝えたい、「三島だよ、三島」しかも「荒屋敷遺跡だって」と。
「荒屋敷遺跡」は、すっかり分かったつもりになっていたのです。まさか「遠賀川」があっただなんて、縄文遺跡、という固定観念がそうさせたのかもしれません。この遺跡については、博物館は以前から専用スペースを設けて展示していましたから、目に入っていてもおかしくはなかったはずなのですが、見落としていたのでしょうか。
ともあれ、拝見できるかどうかを聞いて見たら「貸出中」で、戻るのは3月下旬とのこと。白河の「まほろん」で展示中とのことでした。
今度は紛失して欲しくない、先の「卑弥呼の鏡」は、喜多方市から「まほろん」に貸し出され、返却されて後に行方不明となって、15年が過ぎてしまっていたし。
今度ばかりはやめてほしい、と思うのですが、またも「講演会」を開かなくてはとも思い出して、少しばかり寒気を覚えました。
そんな心配が頭をよぎっている最中に、また「?」が始まったような。
これが貸出中の「遠賀川式土器」。
福島県立博物館 蔵
そして、2009年に何かの書籍から転写していた画像がこれ。
見比べると、確かに「壺」の口縁部に小さく穴が開けられているので、同じものであるとは思われるのですが、 来月になったら聞いてみようと思っています。
以前に読んでいた「神武天皇: 徐福伝說の謎」(衛 挺生1977年刊)にあった「遠賀川式土器」の印象が強く、機会があれば再考してみたいとも思っていたのです。
明らかに会津まで「弥生」という時代は見事に届いていたのです。
「徐福」(西暦前3世紀)から「卑弥呼」(西暦3世紀)まで、ほぼ500年間の会津が蘇る、そんなロマンを語ってもいいような気がしてくるのです。
何が契機になって「徐福」に興味を持ったのかは思い出せないのですが、多分に青春期に読んだ武田泰淳の「司馬遷」の影響が先祖返りして、ロマンとして戻ってきたからでしょう。
三島町にはなぜか「秦」姓の人がおられる。そして先の「神武徐福説」の書籍は、遠賀川式土器は「徐福」集団が運んできたと言っていました。実際に、三島町に足を運んで探してみたときの写真が、昨年(8月)のブロクに上げたものです。
能登半島の北緯37度30分上の須須神社 奥宮から本州を横切る線上に長岡市の三島神社があって、そこが本州横断の基点でした。
もうあれから18年も経っていますから、改めて近年のこの土器についての考察を探していたら、このAmebaブログに出会いました。
<奴国 弥生時代の御笠川河畔(6)遠賀川式土器>です。
「ここは、御笠川東岸は遠賀川式土器の拠点です。遠賀川式土器の最初期の土器つまり板付Ⅰ式土器だけを出土する遺跡がいくつかあります。BC771頃にまとまった人数の移民があったようです。」とありました。
中国「西周」の時代との関連を言いたいのかもしれません。
<御笠川>がここで出てきてくれたので、下の図をあげておきます。
18年ぶりというところでしょうか。(自著 「デルタ・ストリングス」より)
会津三島町の杉材も桐材も、どちらも「船」の建造には欠かせなかったものですが、その両方が揃っていたのがこの地域です。
どうやら、大きく見落としているのは<河川>という気がしてなりません。





