D N Aで分かるまで。<23>
何ヶ月ぶりだったか、久しぶりに<彼>から電話がかかって来た。彼の友人のfacebookに私の名前を見つけたからと言っていた。「松坂」の人で、会えばいつも、「会津」と「松坂」とを、なんとかして「姉妹都市」にしたいと言い出す人物だ。
紫姫君との「ペレスポリス」と「船形埴輪」の対話で盛り上がった後だった。彼は、希臘<ギリシャ>人と邦人との二世で、仕事で世界中を飛び回っている。
「いま丁度、松坂のことを話題にしている」と話したら、突然「辰砂」について語り出した。「僕も昔、一生懸命松坂を調べたことがある。奈良の大仏と金箔、あの鍍金方法は、松坂の辰砂(水銀)がなければ成り立たなかった」などと言い、さらに実際に奈良まで出かけて東大寺を取材し、論文にまで仕上げたなどと思い出を語ってくれた。この技術は日本にはなかったはずとも。
蒲生氏郷がこの町を発展させた戦略資源こそ「水銀」だとも言っていた。
そして突然、「この辺りには大小様々な洞窟があって、ずいぶん昔、その一つで「突厥文字」が刻まれた石が見つかったことがあると言ってくれた。大発見には違いなかったけれど、当時はそれ以上進むことはなかったようだ。
私は「辰砂」と聞いて、会津大塚山古墳の出土遺物の「徒靫(かちゆき )」の「朱色」を思い出していた。神社に「朱色」は欠かせない。
「ところでさ、綾瀬はるかを知ってるかい」と聞いて来た。「<鹿男あをによし>からのファンだよ。関西ぽくない感じに惹かれていたのかな、あのテレビドラマでは「三角縁神獣鏡」が、妙な謎かけだった。ところでなんで、彼女?」と聞き返したら、「松坂に来てたから」と言う返答だった。真偽のほどは不明。ともあれ、未調査の洞窟は松坂市はもちろんその近辺には多いらしい。
そんなやりとりがあったものだから、再び「船形埴輪」が脳裏に浮かんで、紫姫君が指摘してくれていた人麻呂の故郷であろう「葛城」に目を向けて、会津ではなく奈良の大塚山古墳(馬見古墳群・奈良県北葛城河合町)をググってみた。
出てしまった。「舟」が三艘線刻された埴輪が出て来てしまった。
一度持ち出されて戻って来た埴輪
これは船団だ。よくよく見ると、ハッとした。紫姫君に探して頂いていた
「珍敷塚(めずらしづか)古墳」のあの壁画だ。
埴輪上部の一艘目の線刻画の「靭」と思しきものが二つ描かれている。
拡大図
大塚山古墳のある河合町が作成した「史跡大塚山古墳群保存活用計画」の<史跡大塚山古墳群の本質的価値>には、「大塚山古墳から出土した円筒埴輪に描かれた船(外洋も航行できる準構造船か)を表現した線刻は、被葬者集団が大和川の水運に深く関わり広く交易を行っていたことが強く想定される。」と記載されていた。
「舟」ではなく「船」であることに注目したい。「珍敷塚古墳」は6世紀後半のものとされており、約1世紀の隔たりがあるけれども、宝塚1号墳とは同世紀になる。
あるいはこの「船」こそが、謎の五世紀を語ってくれる「手がかり」なのかもしれない。そして「葛城」もまた、大いなる謎ではある。

