D N Aで分かるまで。<14>

 

  県博で行いたい講演会の説明で副館長に呼び出されて、2時間ほど話してまいりました。この初代館長が高橋富雄さんでしたが、副館長さんも高橋さんでした。東日本大震災後は、館内の講堂は、比較的多様な催しものにも貸し出されていたのですが、近年はそうでもなくなっていて、理解できない注文が増えてきており、講演内容にも随分と口出しをしたそうな雰囲気が漂っていました。

 2010年から喜多方市で紛失中であった「土版」こと「卑弥呼の鏡」の再発見により、今度こそその意義を多くの方に知って欲しくて、その講演会を催すことにしたのです。

 かつて、東北で初めて「和同開珎」の発見に携わっていたのが「東洋文化財研究所」でしたが、当時の福島県の教育委員会は、「 福島民報社の編集部に『東文研』の名前を出さなければ『コメント』を出す」という圧力をかけて、半年後には当研究所の調査員を全員県庁職員にして、その後の東文研の活動を停止させたという、未だに許せない犯罪被害に遭ったことがあるので、その教育委員会の管理下にある県博という組織には不信感を拭いきれないのです。

 しかし、ここには「大塚山古墳」の出土品が沢山あり、新たな評価を待っているので、講演内容には深く関わってくるので、どうしてもこの場所で行い、初代館長にもその報告をしたいという希望を持っているのです。

 すでに故人になってはおられるのですが、彼が、「会津は越国の首都」という慧眼というか提言にようやく応えられそうという思いが強いのです。

 関係者で協議をするので時間が欲しい、と言っておられたので期待をしながら待つことにしました。でも、彼らはまるで分かっていません。この「文化財」のとんでもない価値を。すでに数名の外国人とはメールを通じて、大変な反響をもらってはいるのですが、「発見」という喜びは、役人には通じないのかもしれませんね。「埋蔵物」の「再埋葬」しかできません。

 

     めおと鯉?

 などと、愚痴を並べて見たのですが、実は県博のすぐ近くにある神社の写真を撮ることが、今日の本当の目的でした。

 図書館に行き、容保の歌集を探してきましたが、確かに2300あまりの歌が詠まれてはいるのですが、数首を読んでだけではまだ彼の心情が伝わってはきませんが、すでにあることは分かってはいるので、ここに来たのです。

 先に掲載したお城の「シルロード文明館」の真横の土産屋の敷地内にひっそりとありました。

 「照姫神社」です。

 容保が歌を詠むようになったのは、照姫の手ほどきによることはよく知られています。もともとは、めおとになることが定めの二人でしたから、特別な感情が生まれていたことはなんら不思議でもなんでもないのですが、その感情を歌から読むことは、かなり難しいのは、こちらの教養不足に過ぎませんが、どうやら「秘訣」はありそうです。「人麻呂」のようにです。

 彼の歌集に「伊奈婆廼万都(いなばのまつ)」がありました。戊辰敗戦後の幽閉状態にあった時に詠まれた歌を集めた歌集です。「伊奈婆」は何に掛けたのでしょうか。「因幡」、あの「因幡の白兎」でしょうか、少し近づけているような、それとも新たな「謎」が出てくるか、今日はともあれ、「照姫稲荷」に「願かけ」をして、明日を待つことにしたいと思います。