D N Aで分かるまで。<13>
人麻呂で、一歩も動けずにおりました。右往左往の毎日です。手がかりを探していて、なんと妄想もここまで来れば、それはもう狂気というほかないと言われそうですが、突然「ご宸翰」が出てきてしまいました。
松平容保が京都守護職を務めていた際に、孝明天皇から賜った直筆の手紙(宸翰)です。彼はそれを竹筒に入れネックレスのように肌身離さず身につけていたのですが、それが、妙な疑問を生んでしまっていたのです。
会津家訓(かきん)15か条の初めに出てくる『大君』への対応と言えばいいでしょうか、その大君が「将軍」か「天皇」かどちらを意味しているのか、という疑問です。『大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」とあります。
日新館 書庫
この家訓が定められたのは、すでに徳川家綱の時代で、正之も将軍補佐役として外交問題、とくに朝鮮通信使の接遇にあたっていて、「国家元首」が誰なのかは当然考えざるを得なかったように思えるのです。
彼のブレーンに、山崎闇斎や吉川 惟足がいたことを考えると、単に武家の棟梁として意味合いではなく、徳川家康の「東照大権現」をも考慮の上の判断であったことは間違いないと思えてきます。そうであれば、この「家訓」が定められたときは、「大君」が意味していたのは「家綱」であったはずです。
でも僅かながら、疑問は払拭しきれないのです。「大君」に求められる「神格性」と言ったらいいでしょうか、それは吉川惟足の領域になるのでしょうが、それを持つ者は「東照大権現」か「天皇」以外にはあり得ません。また、「列国の例」についても日本以外の「国」を意味するもので、「列藩」を意味してはおりません。
このように考えると少し唐突ですが、将軍職は無論「天皇」守護職でもあることに変わりがなく「大君」は、「天皇」ということになります。
ということは、「会津家訓」は、「徳川家訓」と言い換えても良くなります。ただし私的な「徳川家」ではなく「将軍家」としての家訓という具合です。松平春嶽には「そこ」を突かれたのだろうと思います。将軍徳川家茂に代わって、という逃げ場のない立場に追い込まれたのでしょうか。
どのようなご縁があったのかは覚えていないのですが、明治神宮近くの「平田神社」に何度かお邪魔したことがありました。米田宮司とは白河市までご一緒したこともあります。その「平田篤胤」が「大君」について、『霊能真柱』において「さらにまた、畏れおおい、わが天皇が、万国の大君であることのまことのわけを十分知って」云々と記しています。
平田思想が倒幕マインドを形成し明治をも招来した当時の武士たちの強烈な精神的支柱となっていたことは、容保も知っていたはずです。それ故、「会津家訓」の本当の意味と同じであること、君主のみに伝え続けられてきた「本来の面目」として、彼はすでに感得していたように感じられるのです。
正之は、島原の乱を通じて「他国」を意識することは十二分にあったと思われ、さらに朝鮮通信使を通じても「将軍」や「天皇」が我が国の元首であることへの意義を他国に対して表明せざるを得ない立場にすら置かれていたはずです。
将軍そのものではなく一歩距離を置いた立場からの、「物言い」は、極めて重要な意味が込められている、それは見方によれば、すでに一千年近くの差があるにせよ、人麻呂の「物言い」に似ているとさえ思えてきたのです。
宥座の器
そこから、容保を見直すことになり、やっと昨日彼が2千もの「物言い」を残していることを知りました。

