お盆だからというわけではないのですが、このブログに合う写真を見つけようと古いフォルダーをまさぐって(ググッテ)いたとき、見覚えのあるファイルを見つけました。今では、大和岩雄(おおわ いわお)はすっかり馴染みの歴史家なのですけれども、この頃(2005〜8年頃)はまだ諏訪出身の人であることすら知ってはいなかったと思います。
ですが、「箸墓」という人の声の言葉に初めて接したのは昭和六十一年頃で、それもその言葉を発した人の名前でした。奈良の旅館のご主人の苗字でした。あの頃はようやく純米酒ブームが始まった頃で、その旅館で、熱燗の「越ノ寒梅」が出てきて驚いたことがありました。それには、全く言葉が出てきませんでした。
孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓
そんな一風かわった「箸墓」との出会いではあったのですが、次の図に出会う前に、この箸墓の「はし」について、縄文語というか漢字表記以前すなわち音声主体の言語について、ふとある「思い」が脳裏をかすめたのでした。
これには折口信夫の影響があったのかも知れませんが、「はし」は「は」と「し」とを分けて一つの言葉つまり「熟語」として見なければならないという「思い」だったのです。「端」や「橋」や、まさに道具としての「箸」とは全く違います。「は」が一方の入り口であり、「し」がもう一方の出口を指しているようなそんなイメージです。
折口信夫は「万葉集に歌われている言葉は、すでに七百年前には普通に話されていたであろう」というようなことを書いていたように思います。その彼の柳田國男とは違う演繹的発想によるものの見方は、ベラスケスやピカソの絵画の手法にとても似ていて、そうした発想が随所に出てくる彼の本は手放せない本の一つでした。目で絵画を描くのではなく、口で景色を描く、そんな日本語の原風景が見えたような気がしたのかも知れません。
箸墓古墳(大市墓)
「は」と「し」は、それぞれ別な具体的意味を持っているという発想が、日本語を言語学として扱うには最も必要な見方なのでは、と考えるようになりました。その考え方から類推できることは、まさに「はし」は、「端」から「端」までを表す言葉となり、一つの空間、つまりは「国」あるいはその「国土」全体を表す言葉となり得るという考えに至ったのです。
そんな時にこの図を見つけました。
箸墓古墳の方位・『天照大神と前方後円墳の謎/大和岩雄(六興出版)1983 』より
以下にそのコメントを記します。
※ 大和岩雄氏の「箸墓古墳の方位」としての角度の30度と45度が緯度をイメージさせての「箸墓古墳の方位」であったな
ら、 北緯30度は種子島で北緯45度は北海道の宗谷になる。 北緯45度と北緯30度の差緯度は15度です。 北緯30
度から差緯度の15度の3分の2の緯度は北緯40度で、北緯40度には秋田の大湯環状列石(ストーンサークル)があ
る。 又、北緯45度と北緯30度の中央は北緯37度30分。
『北緯37度30分は会津若松市です。』
十代崇神天皇のころ四道将軍のうちの二人、つまり北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した武渟川別(たけぬなかは
わけ)命(大彦の子)が、行軍の果てに出会った所を、会津といふ。・・・古事記
箸墓前方後円墳は三世紀に、奈良盆地の東南部に作られた。
箸墓のような大型前方後円墳の存在を持って律令国家的王権国家の存在を決定することは出来ないでしょう。 大型前方後円
墳は律令国家建設の願望として造られたと見るべきです。 故に、大型前方後円墳が造られなく成った時をもって律令国家の
輪郭が出来たと解釈すべきです。
因みに、箸墓前方後円墳は北緯30度(種子島)から北緯45度(北海道宗谷)の律令国家建設が願望であります。 その中
心人物は四道将軍のうちの一人、北陸道を平定した大彦命でした。 四道将軍には孝元天皇の血が入っているようです。孝元
天皇の一族の名において箸墓前方後円墳は建造された。 もし、この時に国家統一に成功していたならその都は畿内ではあり
ません。
『北緯30度と北緯45度のその中央北緯37度30分、会津若松であったであろう。』
その時は、箸墓前方後円墳は国家統一の為の聖地であった。ということになります。
※ <tombo>ブログ(2007年7月21)より、 『』 は、松本。
帰納法では、2000年かけても解けない日本語の謎(「箸墓」という単語の意味)というより他ありません。ここで用いているのは、近代測量法であり、この主張の前提には、古代の測量方法を言語論同様に確定することが要請されると思うのです。この指摘への返答は、海外の歴史を参考にすることが一般的でしょうが、インターネット検索で出てくるのは、せいぜい古代エジプトの西暦前2500年頃に使われていた測量法です。しかし、この国の古代測量法に言及してくれるものを、不勉強ながら、まだ見たことはありません。
勝手な推測になるのですが、黒曜石を求めて海を自由に行き来していた民族つまり縄文人こそが、その謎の答えを持っているのではないかと思うのです。DNAに刻まれた経験則としての測量法で。


