まだ柿本人麻呂が分かりません。妄想も限界に近づいてきたのでしょうか。
ただ、この西福寺であり柿本稲荷神社である所には、芭蕉の句碑が建てられています。「しばらくは 花の上なる 月夜かな」、安政六年己未三月とあります。俳句仲間の名が刻まれています。戊辰戦争の九年前ということになるのでしょうが、嘉四郎も安政生まれ(三年)です。
柿本稲荷神社
だからと云って、それが人麻呂に繋がるとは到底思えませんが、なぜか和歌に関連して思い出すことは、「辞世の句」についてです。母は、母の祖父や父母の「辞世の句」を詠んでくれたことがありました。一度、祖母からは直接和歌をもらったことがありました。静かに水辺に浮かんでいる鳥も、水中では足を盛んに動かしているというような教訓めいた歌だったことは記憶に残っています。ただ、母方の祖母については、朝になると必ず窓を開けて、東の方を向いて手を合わせて拝むという習慣に、子供心には拝む対象が神様や仏様ではない不思議さを感じていたことを覚えています。
母の懐古趣味というか少女趣味というのかは、好きではなかったため、相当の距離はおいて見やることが普通でした。
母が祖父母の世話をさせられていた女学校時代に、祖父からは何度も聞かされていた話に含まれていた、ある彼の出自に関わることが、想像するしかできななかったことではあれ、それなりに母には伝わっていたのかも知れません。
そう思うと、母の振る舞いもなんとはなく理解できる気がしてきます。
満州からの引き上げ後数年間は、古いか新しいかは別として、母は幼子の私を連れてお風呂を使わせてもらいに「本家」に行きました。もし、自分の伴侶の父が勘当などされていなければ、そこは間違いなく「実家」と言えたのだと思うのと同時に、母もそれは意識していたのかも知れません。しかし、なぜかあの「墓」が発見されたことによって、私にとっては、現在はすでに「本家」の行方が分からない状態に陥ってしまっています。
暗喩だらけの「実家」、もしくは「本家」ということになるのでしょうが、確かにこんなことより大事なことは沢山あると指摘を受けたらそれまでという気持ちは十分持ち合わせているつもりです。
過去より「今」ということは、戦後一年後生まれの「戦後子」にとっては、戦争を経験し生き延びた人に骨の髄まで染みついている、自分より大切な、多くの「もう一人の自分たち」を失った悲しさや辛さの大きさを忘れる口実になりかねません。でも一瞬で、人類の「過去・現在・未来」を「蒸発」させたあの原子爆弾は、勝者のいない人類絶滅の終末戦争に進むことを予兆していました。敗戦とか終戦とか、もはやそれは「戦争」と言えるものではなくなっていたと思います。戦争を、物質的豊かさの追求の最も容易な手段と考えた者たちにはそれは理解できない戦争であり、今もその認識に立てない「権力者」が大勢います。
2012年9月27日 日経新聞
瞬間蒸発炉」を米国は2度も日本人ならぬ人類に向けて使用しました。これ以上の人類に向けた凶悪犯罪はないはずです。その犯罪をオウム真理教集団も弁護士家族に対して行ったことと、サリンの集団殺戮事件は、まさに規模が違うだけで、原爆とコロナワクチン強制接種となんら変わるところがないように思います。
唐突ですが、嘉四郎は、戊辰戦争で経験させられた「残された者」の意味を常に問いながら生きていたように感じられてなりません。昨日まで家族と信じていた者たちが、自分だけを残して全て自刃して果てたことの意味を、一生かけて問い直していたのではないかと思えるのです。明治から昭和にかけての戦争の世紀を生きた人々は、常に「世界と日本」とを、生死をかけて問い続けなければならなかったはずですが、その戦争の初めを体験した嘉四郎はその答えの一つとして、寺院を復興し、神社を再建したのだろうと思われるのです。きっと家族への最後のプレゼントがあの「墓」だったのではないかと思われてならないのです。
今日は8月15日、墓参の日ではあるのですが、それは明日ということに。
まだ、足の痛みが取れていないので。

