「なよ竹」にブロックされたのかも知れませんが、あの日以来、とても厳しい日が続いていました。

 

 この4月に、長野県伊那市に住む友人からの依頼で、毎年高遠歴史博物館で行われる「保科保科正之公生誕祭」の際の配布資料として、昨年6月号から寄稿していた印刷原稿が欲しいと要望が寄せられ、印刷代経費は寄付で賄えるようにと、新たな「発見」についての文章を書き下ろして、「小原庄助 中将賜盃之一幕」として製作し、300部ほど一泊覚悟で届けました。結果二泊になりましたが、そのお陰で、小野神社や諏訪大社前相殺は出来たのだとは思います。

              

                  小原家が保科様からの賜盃を取り上げました

 友人には何度も念を押しての製作でしたが、千円の寄付を頂いたのは、博物館の館長さんからだけでした。それも押し売りのようにして。後に礼状はお送りしておきましたが。しかし40万円以上の経費は、心理的にはまだ相殺途中です。

 こうした経費にあえて知らんふりで無頓着なのは、どこに行っても役人であることを痛感しています。役人以外は、それを承知の助で、ただただ距離を置くことに専念するという訳なのですが。

 それで終わればよかったのですが、なんと5月14日には 福島民報紙に1面と3面に、会津若松市長と共にこの自費出版(慈悲)冊子の記事が掲載され、さらには5月17日には「信濃毎日」の伊那版トップに、紙面の大半を占める大きさで掲載され大変な反響を呼んでしまいました。追い討ちをかけるように「長野日報」では、一面トップで大々的な扱いになり、驚かざるを得ませんでした。そして、多くの方からは「続き」あるいは「続編」が何度も要求されるのです。宣伝として考えるのなら、対費用効果は大変なものですが、商才がないのでまさに猫に小判、豚に真珠です。印刷経費の足しになることは毫ほどもなく、ただふり回されてしまった感は否めず、正常に復帰するタイミングを得るのに苦労の続く毎日を過ごしました。

 そのような状況になるといつも思い出すのは、「誰のせいでもありゃしない みんな俺らが悪いのさ」というあの諦観、あるいは人麻呂流「挽歌」です。原曲は「But I'm just a soul whose intentions are good Oh Lord, please don't let me be misunderstood」とあり、「心掛けでは負けないんだけど、どうか誤解しないでね」とでも訳せるでしょうか。まさに、日本では尾藤イサオが歌っていましたっけ。

  そのような状況から抜け出すのに、このブログが必要だったのかも知れません。

  

   

              郡山市の采女祭りの様子です。(N H K)

 

 

 これまでの流れでは、「柿本」にはなかなか辿り着くことが出来ませんでしたので、「柿本人麻呂」についての比較的新しい視点を持つ論考に当たりましたが、土方賀陽という方が書かれていた「職業人としての柿本人麻呂」という以前に読んだものを再読して、気づかされたことがあります。それによると「新撰姓氏録と日本書紀からは、柿本朝臣は和珥(爾)一族の支族で敏達天皇の時代に庭に柿の木が生えていたことから和珥臣から柿本臣に改姓し、天武天皇の時代に朝臣の姓(かばね)を頂いたことになっています」とありますが、次いで長いですが、そこには、「和珥(爾)一族は、日本書紀や古事記の歴史では孝昭(かうせう)天皇の兄の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)(天押帯日子命)の子孫とされています。ところが、応神天皇の妃に和珥日触使主(わにひふれのおみ)の姫の娘の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(宮主矢河比売)がいらっしゃいますし、また、櫟本や柿本の名称は、山蚕(やままゆ)の絹織物や当時の最新の甘味である干し柿に関係しますから、使主(おみ)・櫟本(いちいもと)・柿本などの名称・肩書きを思うときに、どうも、和珥一族は大陸から朝鮮半島を経由して渡来した技術系の一族だったようです」と書かれています。なかなかに読み応えのある論考です。以前には読み飛ばしていた、「日触」「山蚕」「干し柿」「大陸から朝鮮半島経由」がとても新鮮に目に映りました。「ワニ」といえば大国主に助けられた「因幡の白兎」の古事記の説話を思い出すことができます。

  朝鮮半島といえば、もう40年ほど前のこと、韓国は釜山の首露王陵に行ったことがあるのですが、近くのグランドのようなところに大勢の人が民俗服を着たりして集まっていたので案内の人に尋ねたら「金氏」のご先祖のお祭と教えてくれたことがありました。韓国中の「金海金(きめきん)」が集会を催すのだそうです。ここの資料館に案内された時、なぜか案内人は入館を拒否され、日本人の私だけが特別に資料を頂き、熱心に館長さんから日本語で説明を受けた体験があります。その資料で始めて、伽耶國とインドとの関係があることを知らされました。そして、このインドと「蚕」の関係を知ったのが、昨年10月頃で「蚕養国神社」を調べた時でした。この時の驚きは、鹿児島経由で喜界島に行った時、初めて繭から糸を繰り、一本の絹糸にするその光景がとても鮮烈で今も覚えていることです。その光景を思い出しながら、一つの思いが繋がりだしました。

 

 詳しいことは後日述べたいと思いますが、視野が大きく広げられてしまったことは事実です。