母が、曽祖父の幼少時代を知っている人から聞かされた話として、思い出すことのできる話が二つほどあります。そのうちの一つはお堀に関することで、彼はよくお堀を観察するのが好きで、長めの棒を持ち、矢立を持ち、半紙を持って、何やら測量めいたことをやっていたと幼少時の彼を知っていた人から聞かされたことがあったと教えてくれたことがありました。時代を考えれば、これは陣立てなどに必要な、武士ならば身につけておかなければならない基礎教養の一つではあったのだろと思えることです。このお城は鶴ヶ城であろうと思います。曽祖父からの伝聞ではないことが、むしろ正しさを感じます。

 

  

           鶴ヶ城 国道121号線から見た西出丸石垣と堀

    

   

 もう一つは、母がとある家の新築の建前(たてまえ)に参加した時に、玉串を奉奠したそのすぐ後に、その大工の棟梁から、「あなたは本来、奉奠をする立場の人ではなく、受ける立場の人なのだ」と、言われたことがあったという話でした。

 聞かされた当時は、どちらの話に対してもどのような知識も持ち会わせてはいなかったから、最初の話からは、十分自分の時間を持つことができ、落ち着いて生活を持てているような「武家」の子息であるという印象を受けていました。

 また後者の話からは、当時はどのようなことなのか皆目見当もつかなかったものの、今では神主さんの立場だったらあり得る、くらいには想像を働かせることはできるでしょう。

 しかし、昭和52年当時昭和天皇の末弟でおられた三笠宮様を喜多方市慶徳町新宮の熊野神社にお迎えした時、誰だったかは覚えてはいないのですが、「天皇は、神様の中の一番尊い神様だから、玉串はお受けするお立場であっても、自ら奉奠をなされるお立場にはない」と聞かされたことがあります。しかし実際には、宮様は長床(拝殿)にお入りになり、熊野三社へ向けて玉串奉奠をなされていたことを思い出します。

 

     

                  喜多方市 熊野神社 長床

 

 このような体験をしていたものですから、それから30年ほど経って後に、 福島県立図書館で神社史などを紐解いていた時、偶然に「保科」という二文字が目に入り、そこには、「悪い星を射落した」ので保科となったと書かれていました。とてもプリミティヴな名前の当て方が気に入り、忘れることはなかったように思えます。同時に伏見稲荷大社の祖の名前が「伊侶具」であることも覚えてしまったようです。

 しかし、昭和50年頃は神社や寺院に対しては、無知もいいところで、なんの予備知識も持たなかったし、古代史にはまだ興味をもててはいなかったと言えます。学生の頃には日本の制度史あるいは法制史に興味を持っており、学問的研究の対象としてあったと思います。どうして、高橋富雄著の「徳一と恵日寺」を読んだのか、よく覚えてはいないのですが、かつて親鸞のあの独特な思想の解説書を読んだことがあり、キリスト教か仏教かで大変悩んだ時期があったりしたので、地元で、真っ当な仏教思想史の著作が出版されたことへの驚きが大きかったので、つい読んでしまったと思います。読後の影響は大きかったと思います。歴史というより思想史として、とても興味を惹かれました。

 とても説明が難しいのですが、この二つの読後感を足して二で割ったような感覚を味わったのが、あの「毛越寺」です。「空間」が思想というものを顕わすことがあるとすれば、まさにこれではと思いました。史跡とは言えず、語りかけてくる何者かだったのです。

 ここに連れて来てくれたのは、あの白水阿弥陀堂の復元を担当なされた藤島亥治郎博士

で、背中を見て追いかけるだけで第一級の研究者になれるそんな印象を与える方でした。

 現代の建築家では、谷口吉生の作品にそれを見ることができるかもしれません。彼の最初の頃の作品に出会ったのは、「北塩原役場」です。まさに「円墳」役場でした。残念ながら今はそこに古墳の面影は削られ、ありません。国際的には小椋佳よりは良く知られています。世界中から多くの人々が見学に訪れます。土門拳記念館、東山魁夷館、法隆寺宝物館(国立東京博物館)等々。

 

 (西郷邸跡の「なよ竹」の句碑をブログに掲載するため、フォトショップで編集しよ

 としたとしたのですが、何度も拒否されました。リセットしてもダメでした。他の

 写真はO Kなのに、です。)