本当にこの「命題」になってもいる「柿本」は、どこかにヒントでもあればと何度も探しまくったのですが、いまだ手応えがありません。それで仕方なく「子午線135度」に最初の手がかりを求めてみたのです。
兵庫県明石市には柿本神社があり、「子午線記念館」(現明石市立天文科学館)があることは知ってはいて、かつて明石リハビリテーション病院へは二度ほど行った記憶はあるものの、残念ながら神社も科学館も未だそのどちらへも行ったことはありません。
明石リハビリテーション病院
しかし、柿本人麻呂が宮廷歌人であることより先に、いわば鉱工業管理官(鋳師―朝集使)としての公的役割を担っていたことは近年明らかになって来ているので、職業柄天文と地理に関しては相当の専門知識を持っていたことにはなるだろうと思われます。
そのような前提に立って<明石>と<会津>とを天文事象との関連で見てみると、面白いことが判明します。それは「子午線」つまり「経度」と「緯度」との関係ですが、前者は北緯34度38分(58〜59秒) 東経135度、そして後者は北緯37度30分 東経139度55分ということになります。ただし、子午線は1884年にワシントンの国際会議で定められたものであり、宇宙規模の<縦横>の関係では20世紀(2000年)以上の時間的隔たりがあります。
緯度の発見は、紀元2世紀の古代ローマのプトレマイオスがと言われてはいますが、ただ、プリニウスの博物誌に記録された「カターニャの日時計」が世界史的には根拠の明確な証拠となるのではないでしょうか。
紀元前3世紀、シチリア島のアルキメデス がいたシラクサの隣りの都市カターニャ にそれはあったとされ、ローマ軍に奪われた後、首都ローマに持って行かれ、緯度の違いが判らぬままに100年間ほど使われていたと言われています。ちなみにローマの緯度は北緯41度54分だから日時計の文字盤に映る影の長さは異なってしまいます。北海道の函館辺りが同緯度です。
この緯度は、日時計の指時針(ノーモン)の角度であり、針の先を北極星に向けた時に角度が決まるのですが、少しばかり妄想を加味すると、カターニャの日時計を持って、太陽が登る方向にどこまでも進んで行くと、なんと会津に到着してしまうのです。ユーラシア大陸を横断してしまうことになるのですが、西欧史、東洋史、中国史、日本史までも横断することになって、何やらシルクロードが会津まで来てしまうことになってしまいます。少し言い過ぎになるかもしれませんが、鶴ヶ城北出丸のお堀端にはレンガ造りの「シルクロード文明館」があり、レンガの壁には、一個だけ万里の長城の「レンガ」がはめ込まれているとの話ですが、果たしてそれは「伝説」でしょうか。
万里の長城に関連して、その長城を造らせた秦の始皇帝は携帯用日時計を持っていたとされますから(未発見)、不老不死の仙薬を探しに捜索隊を送り出した(東渡)際、その隊長たる斉国の方士徐福にそれを持たせたことは十分に考えられます。
徐福東渡によって、3000名にも及ぶ大集団のいずれかが我が国の沿岸部の土地々々に漂着したと標榜しているその自治体の数は40カ所にも及びますが、しかし、そこに「会津」は未だ見当たりません。本命は「会津」と思う方は居られるでしょうか。
始皇帝の持っていたとされる携帯用日時計は、先のカターニャ とローマの移動時においても指時角(ノーモン角)は変わらなかったし、その時代は同じ西暦前3世紀であり、角度を自由に変えることのできるものではなかったと推量できます。きっと砂漠の商隊(キャラバン )の運んできたものだったのではと想像しています。
(写真!) 2021年6月21日 夏至の日 N:N:37°33′ 24″ E:140°2′24″
写真(1)のものは、こちらが勝手に「カターニャ・サンダ-イアル」と呼んでいるもので、2021年6月21日、夏至の日に猪苗代町土田(はにた)村にある「源翁石」の近くで撮影したものです。「源翁石」あるいは「玄翁石」は、「キツネ」とも大変関係のある「石」ではあるのでしょうが、それは次の機会に譲っておきましょう。ここではむしろ「天文石」と見立てて欲しいのです。
N:37°30′00″ E:140°08′48″ 雲間に磐梯山
今年2021年6月21日には、ドンピシャり37度30分00秒のところにサンダイアルを置いて太陽の南中時に撮影をしました。猪苗代湖の志田浜です。ここにはなぜか驚くほどピッタリの位置に「栄光の女神」像が立てられています。揮毫は「岸信介」になっています。おそらくは、国道などの工事に伴う破壊か移動が迫られ、このような像が立てられたと思われるのですが、驚くなかれ、この全く反対の方角(西)の同緯度には、湖水を挟んで「須佐乃男神社」があるのです。とても不思議です。「一対をなした神々」つまり伊弉諾伊弉冊のような、天の御柱を二人で支えるような関係にあった男女の神々を祀る神社がここにはあったと思えて来ます。
こうした想像を働かすには、やはり歌人「人麻呂」が要請されるのではないでしょうか。




