もちろん「恵方巻」はご存知ですね?

 近年になって東北地方にまで知られるようになった「縁起食品」です。まだ食べたことはないのですが、この言葉は「恵多巻」そのものではありませんか。もとは普通に「えたまき」と言って、漁師料理を指していたのではないかと思います。この料理は関西地方で江戸時代からのものとあるので、その時代は、「穢多」はすでに定着してしまっていて、美味しそうではあるけれど関西で穢多は禁句ですから、「恵方」に変えたと思えます。まさに方位の接尾語を漢字だけを変えて「方」としましたが、それでも示す意味は同じです。 

 

   その方位について、以前にこんなことを書きました。文調は変わりますが。

 

              

                 旧会津図書館前にあった日時計です。

 

      ※ 題は「狐と稲荷」としました。

  

  === 気になる「断定」がある。

 「越後居多神社が、気多神社なことは疑いありません。事実居多はケタともキタとも読まれています。ですから気多の変形です。しかし古来、コタとよむのが正式です。」という、高橋富雄著の「古代語の東北学」の一節の「コタが正式」という「断定」なのだ。

 ハイマートクンデ(郷土史・誌)学の大家ともいうべき福島県立博物館の初代館長であった人物だ。「全東北」が彼の「郷土」といっていい。彼の著書に初めて接したのは、昭和50年に出版された「徳一と恵日寺」だった。少しばかり独文(ドイツ語)くささが漂う文調が印象的だったし、それが、独文学ではなく、こともあろうに古代日本の仏教史に係る「大事件」をテーマにしたものだったから驚いた。ただ読後以降、何故か神社仏閣との縁が深くなり始めたような気がしている。

その彼の「居多」を「コタ」とよむことから決別したのは、おそらくは、今から、十七、八年前のことだった。理由は、今では居合(いあわせ)町になっている会津若松市一箕町の一角に住まいしたことがあり、「居」を「こ」とよむことに、少しばかり抵抗を覚えたからで、後に数年かかってその判別を試みた結果、明らかにこれは「イタ」とよむべきものとの確信に至ったからだ。

新潟県上越市には、居多神社や阿比多神社がある。それら神社の由緒を調べると、古文書には、居多を「ヰタ」や「ゐた」という旧仮名遣いで、明らかに「いた」よむことができていたことが分かる。

 また、鹿児島県いちき串木野市にはそれこそ「伊多神社」があって、その由緒には「奥州胆沢郡から入枝志摩之烝の先祖が御神体を運んで、勧請したのがはじまり」(鹿児島県神社庁)とあり、しっかりと「イタジンジャ」と読ませてもいるのだが、驚くなかれ、この御祭神は「饒速日命(ニギハヤビノミコト)」とある。※ 奥州胆沢郡は現岩手県胆沢郡

会津とは切っても切れないほどに縁の深い「みこと」なのだが、江戸時代初期に書かれた「会津旧事雑考」(向井吉重)の巻頭を飾る神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)との国権争奪戦記(生駒山戦記)の一方の国権主こそ、この「みこと」であり、会津へと戻ってきて、今は(江戸期)高田(現会津美里町)の神籠嶽(こうろがたけ)にある立派な古墳に眠っているとされている。この戦記に記されている「レガリア」(王権を象徴するもの・神宝)は、今でも博物館で見ることができるのだが、その説明はなぜか今もってなされていない。

「多」は「田」に通じていて、白川静の漢和辞典によれば、「田」は、元々は「東西南北」を意味していたそうだから、「阿・あ」も「居・い」も、方位語に用いられた言葉で「多」はその接尾語と言えるだろう。よって、「阿多」は「東の方角」であり、「居多」は、「北の方角」ということになる。阿比多は、安日多でもあって、岩手県八幡平の安比高原を想起させるが、太陽(あび)が登るのは東の空だ。

「い」は、古代の我が国においては、「いつ」(稜威・厳)でもあり、神聖視され、みだりに言の葉にのせる文言でなかったから、「稲」の字が充てられたに過ぎない。

 ようやく、白狐の足跡の一歩目が見えたところだが、紙面が尽きたようだから、続きは次回ということになる。====